二千八百二十六(うた)平川彰「インド仏教史 上」
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
六月二十九日(日)
1974年に出版し、2011年に新版が出た平川彰「インド仏教史 上」を読み始めた。序章に
彼はその自覚を「不死を悟った」と言い表わし、また「苦より解脱する道を発見した」とも表明している。

よく、輪廻を止めると云ふが、高度に学んだ人や、止観の方法として云ふのならよいが、一般に言っても広まらない。平川さんが取り出した言葉がよい。
不死または苦よりの解脱世間受け 良き表現と一旦は喜ぶもののすぐ後に 無我が出来てぬか喜びに

反歌  苦行など高度の人と一般の人をどちらも救ふふた道
仏滅五百年ごろに、時代に適合する仏教として大乗仏教が起こったのであるが、(中略)最初から呪術的な要素が強かったのであるが、これは民衆の宗教的要求にこたえるためには、やむをえない点もあったのである。

なるほどこの点を忘れてゐた。
大乗の呪術性には気付かずに良き考察と喜ぶも 後に空観唯識と教義上へとぬか喜びに

反歌  従来が複雑化して大乗が現れこれが我が思ひにて
このような呪術的な要素が大乗仏教の中でしだいに優勢になってゆき、西暦六世紀ごろより、しだいに密教が盛んになるのである。(中略)表面の儀礼的な面はヒンドゥ教とほとんど変わらないのである。

さて
初期の大乗仏教は、『般若経』や『法華経』、『華厳経』などのほかに、阿弥陀仏の信仰なども抱合して、きわめて多彩な宗教であった。その後、紀元二世紀ごろから、これらの経典に対する理論付けが行なわれるようになり、空観に立脚する中観派が成立した。(中略)瑜伽行派は(中略)百年ほどのちに(中略)唯識思想に立脚する。(中略)両学派は、並立しつつ(中略)融合していくが、同時に両者ともに密教化していったのである。

有名な大乗三経先に出て 空観及び唯識が後から来るは驚きて これは教義の複雑化にて
反歌  複雑化実は堕落化出世欲贅沢欲と闘争欲か
法顕、玄奘、義浄の著作から
大乗仏教の起こったあとにも、部派仏教は盛大であったのであり(中略)しかもいつの時代にも大乗仏教よりも部派仏教のほうが勢力が優勢であったのである。

ところが義浄の時代になると
大乗仏教と小乗仏教の間も、区別があいまいになり、(中略)大乗も小乗も密教化した(以下略)

この点は小生も誤解し、従来が大乗になり、そして密教になったと考へてゐた。
仏法が滅びた理由に、密教化のほかに
アートマンを否定した点にあったと思う。仏教は原始仏教以来、「無我」を主張するが、これはインドの伝統的なアートマン(我)の宗教と敵対するのである。

せっかく先頭で平川さんを誉めたが、ここでは逆を言ふ。とは云へ
輪廻思想を認めるとすれば、輪廻の主体が必要になる。(中略)唯識思想の阿頼耶識や、如来蔵思想(中略)などは、アートマンにきわめて類似した観念である。そして部派仏教でも機械的な無我を主張する説一切有部はしだいに勢力を失って、一種のアートマンである補特伽羅(四文字で、ふとがら)(人我)を説く正量部の勢力が、後代には非常に強くなっている。

更に驚く情報は
仏教が本来アートマン説でなかったことが、仏教がインドに滅びる大きな理由であったと考える。それと同時に、インド仏教は輪廻思想と結合した仏教であり、(中略)中国仏教や日本仏教も、(中略)表面的には輪廻思想を受け入れているが、(中略)本質的には輪廻思想を主体とする仏教ではない。

なるほど、釈尊は最初布教するつもりは無かった。独覚である。だから本来アートマン説でなかったとするのは正しいが、布教を決意したあとは無記を貫いたのではなかったか。或いは、相手に合った方法を説いたのではなかったか。
比丘に供養する信者の側からは、喜捨することで功徳を期待する。つまり輪廻思想である。
アショーカ王の仏教は、その内容から見て、次の部派仏教に入るものではなくして、原始仏教と同質の仏教徒考えられる(以下略)

これは同感だが、アショーカ王の時代の優遇が、増大と教義複雑化を生んだのではないか。(終)
(追記)前にも、この本を読んだことがあった。

「初期仏法を尋ねる」(百五十九) 「初期仏法を尋ねる」(百六十一)

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