二千八百二十四(うた)「アジア仏教史 インド編 Ⅱ原始仏教と部派仏教」その三
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
六月二十七日(金)
「第四章アショーカからカニショカまで」に入り、アショーカが
熱心な実践的仏教者であったことは疑いない。しかし、かれの政治は、とくに親仏教的でも反婆羅門的でもなかった。
別の話題で
インド西北の地域におけるギリシャ人の数はかなりに上ったらしく、(中略)バクトリア王国は、ギリシャ人の支配者を戴き、国民はギリシャ人とイラン人とからなり、ヘレニズム文化を標榜した国であった。
さて
すでにマウリア時代、インド在住のギリシャ人の間に仏教が広まっていた
その後、イラン系の遊牧民がバクトリアに侵攻したため、インドのギリシャ人は退潮に向かふ。
カニショカの故郷はコータン地方であると伝えられ、したがって大月氏ではなく小月氏に属していた。だから、クシャーナ王朝はカニシュカの前で一つの断絶があったらしい。(中略)カニシュカも、仏教以外の宗教を併わせ認めており(以下略)
そこは
東西の文化を包容し、(中略)大乗仏教の発達とその急速なシナ世界への移出も、そのような空気と無縁ではない。
なるほど、大乗の成立はこの辺にありさうだ。
大乗が生まれた訳は バクトリアマウリア朝と二つとも 五つインドと異なりて異国の風を大いに入れる
反歌
仏像はヘレニズムより生まれるもランカ島まで広く伝はる
六月二十八日(土)
「第五章普及と変貌」に入り、釈尊は早くから、出家者たちを各地に向はせた。
「比丘らよ、遍歴せよ。人々の利益のため、人々の安楽のため、世間に対する哀れみのために、天と人との福祉・利益・安楽のために。(以下略)」
さて
パーリ語は、原始教団のことばであった古代マガダ語が、ウッジャイニー地方を中心とした上座部僧団に伝持されている間に、その地方のびしゃーチャ語系方言の影響を受けて変化し(以下略)
とあり、中村元さんも同じ説だ。
後一世紀の末葉、まずガンダーラにおいて、次いで間もなく後二世紀初頭にはマトゥラー地方において、史上最初の仏陀像が出現する。
とは云へ
明らかに仏像であるにもかかわらず、その奉献銘によれば「菩薩」の像とされている
菩薩とは、仏陀になる前のことである。
在家の人が(中略)沙弥・沙弥尼になるのを「出家」といい、更に進んで比丘・比丘尼になるのを「進具」という。
良寛和尚は越後の光照寺で出家、水島の円通寺で進具。これを、明治以降の感覚で、光照寺は在家として参禅だった、とするから四年間の差にまで話が大きくなる。
「第六章アビダルマ」に入り、説一切有部と南方上座部について有名な論師、ヴィスバンドゥ(世親または天親)とブッダゴーサは
世に現れたのは第五世紀、(中略)インド仏教の主流は、すでに大乗仏教にあったが、一方で、アビダルマの本当に完成するのも、ようやくこの時期に至ってである
仏法と科学が未分化の時代である。大乗側が大きく進み優勢になり、従来側はアビダルマがあまり世間に受け入れられなかったのではないだらうか。
従来を大乗国に伝へるは スッタニパータダンマパダ経蔵としてそのほかを論蔵として 論蔵は注釈書とし簡略が良い
反歌
簡略が大乗国で差別化を二千五百の年蘇る(終)
「初期仏法を尋ねる」(百五十八)
「初期仏法を尋ねる」(百六十)
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