二千七百九十八(うた)三友量順「玄奘」その三
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
六月十日(火)
玄奘は
漢字国名略(ラムガーン地方)を過ぎ、更に南に進むと(中略)仏塔が建っていた。(中略)『慈恩伝』にはこの地から北の地域は漢字略(辺地)と号するとしている。(中略)ここまでがインドのサンスクリット語を解する人々が住んでいたということなのだろう。
梵語と口語の差がどれほどか不明なので、解するかどうかは何とも云へないのではないだらうか。
辺と呼ぶ境の外も仏法の伽藍や僧徒数多く見る
更に南に進んで、やがて北インドの境・漢字略(ナガラハーラ)国に至った。(中略)さすがに北インドに入るといわれのある仏跡はいたるところに散在していた。
インドから仏法が滅んだ結果、それらはどうなったのだらうか。
インドから仏の教へ滅びるに多く遺跡も道連れとなる
東南に向かって山道を五百余里ほど進むと漢字略(ガンダーラ)国に至った。
詳細は「玄奘三蔵大唐大慈恩寺三蔵法師伝」にあるので省略し
さらに東に進み(中略)漢字国名略(ギルギッド地方)に至った。金銀を算出するためこの国の財政は豊かであるが、反面、人々の性質も荒く仁義に薄いと『西域記』には記している。
逆の気もするが、賊など治安が悪いためか。
金銀は無きが足りると穏やかに余ると荒く仁義薄れる
再び来た道を戻って(中略)漢字名略(タクシャシラー、タキシラ)に着いている。(中略)ガンダーラと同じく(中略)漢字国名略(カシミール)国に従属していた。人々は皆、大乗仏教を信奉していたが、伽藍も荒廃にまかせていた。
更に進んで、カシミールに二年滞在し
漢字国名略(パルノーツァ、現在のプーンチ)国から(中略)ラージャプラを越え漢字国名略(タッカ)国に入る。
タッカ国より先は
『福舎』が多く設けられていると記している。
福舎は国王の命令で建てられ、旅行者を泊め、貧しい人に食事を施したさうだ。
東に五百里ほど進むと漢字名略(チーナプクティ)国に至った。(中略)「支那の所有」の意で(中略)カーピシー国で聞いたカニシカ王の人質としてやってきた漢の王子の冬の住所がここである。
「玄奘三蔵大唐大慈恩寺三蔵法師伝」には滞在の様子が詳しい。しかし国名の話は無かった。
東北に百四、五十里ほどで漢字名略(ジャーランダラ)国へ入る。
そこでは
五十余箇所の仏教伽藍には二千人ほどの僧侶がおり、大乗・小乗がともに学ばれていた。外道の人々も五百人ほどいて、かれらは身体に灰を塗っていた。
従来と大乗と外道共存が正しい社会 ヒンズーやイスラムのみは危なき社会
反歌
従来と大乗のほか外道あり六師外道は在世の倣ひ
ここからは「玄奘三蔵大唐大慈恩寺三蔵法師伝」と同じなので省略した。(終)
「初期仏法を尋ねる」(百四十五)
「初期仏法を尋ねる」(百四十七)
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