二千七百九十(うた)三蔵法師を書いた本は駄作が多い
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
六月六日(金)
長澤和俊訳「玄奘三蔵大唐大慈恩寺三蔵法師伝」の次に、三蔵法師の本を何冊か読んだところ、駄作ばかりだった。
まづは『北海道大学教授中野美代子「三千世界を跋渉す蔵法師」』である。個人名で出版するならまだしも、北海道大学教授と表紙に書くところは悪質である。
「はじめに」の冒頭からして
玄奘すなわち俗にいう三蔵法師は、いったいいつの時代のひとなのかーーーーと問われれば、初唐、西暦でいえば七世紀のひとだといってよいであろう。もう少し詳しくいえば、大唐帝国の第二代皇帝として名君の誉れ高い太宗の治世下に、玄奘の西天取経の旅はなされたのであるから、唐の太宗の時代のひとだ、といってもさしつかえあるまい。
これほどの駄文は、過去にも数回しか出会ったことがない。いつの時代かと聞かれたのだから、それを答へればいいではないか。二代皇帝か、名君か、西天取経の旅かは、一旦回答のあとに追加してもよいが、追加してもまったく無駄な文章だ。それらは、別の段落できちんと言及すべきだ。
「はじめに」は最後に
本書は、もとより史実の玄奘の伝記を記すのを目的とする。したがって、さまざまなフィクションのなかにおける玄奘については、副次的にしか述べられないのであるが、しかし、時代を超えてさまざまな玄奘のイメージが形成されたという事実についても、私は冷淡ではありたくないと思う。
とんでもない駄文である。中野美代子は、北海道大学文学部卒業。オーストラリア国立大学助手・講師、北海道大学助教授を経て、(以下略)
オーストラリアで勤務したことが、駄文の原因だらうか。或いは、これほどの駄文はほとんど見ないので、別の原因があるのかも知れない。
六月六日(金)その二
次は松原哲明「心は遠くブッダのあとをつぎ 三蔵法師玄奘の旅」。著者は臨済宗の準僧侶である。これ以降、妻帯した人は準僧侶と呼ぶことにした。
これは、国際規格に近い。日本で僧侶を名乗っても、国際社会では僧侶扱ひされないことが多かった。後にバブルなど日本経済が好調な時は、資金供与などで違ふ扱ひになったかも知れない。
贋僧侶や寺男ではなく、準僧侶と呼ぶことに小生の好意を感じてほしい。準僧侶だから準住職を続けることもできる。
第二回結集は(中略)保守派の上座部と進歩派の大衆部(中略)の対立が表面化し、第二結集以後、(中略)アショーカ王(括弧内略)の時代に至るまで、お互いに融和できない状態であった。
問題点を赤色にした。進歩派と云ふより、地域差ではないのか。インドは広いし、通信手段がない。そして、お互いに融和できないかどうかは不明だ。二派以外にもどんどん分かれた。それらの各派は、互いに融和したりもしたのではないか。更にアショーカ王の時代まで融和できなかったとする意図が分からない。それでは、この時代以降に融和したことになる。
『後漢書』は、明帝の異母弟(中略 ?~七一)が、黄帝・老子とともに仏教を信奉していたと伝え、(中略)しかしながら中国に仏教が根づく基礎を固めるのは、この記事のおよそ八〇年後、(以下略)
その後
二五四年には安息国のダルマトラータ(曇諦)が四分律の授戒作法(中略)を訳している。それまで(中略)出家者もただ剃髪するのみであった。
中国は遅れて入る戒律をその後は長く保つとも 日本遅れて来た後に最澄破り明治維新妻帯により僧侶滅亡
反歌
比叡山僧兵そして三井寺へ武闘さわぎと遂に焼き討ち
反歌
準僧侶または社僧で矛盾なく勤めることが可能となるも
「も」の字が重要である。明治の中期以降の日本は、僧侶が出鱈目だった。かうすれば解決すると、提案してゐるのだが。
この本の悪い所は「三蔵法師玄奘の旅」ではなく、「松原哲明旅自慢と、知ったかぶり余計情報」だ。
六月八日(日)
NHK取材班「仏教聖地・五台山 日本人三蔵法師の物語」は、玄奘ではなく、遣唐使として渡航した僧の話だった。これも興味ある話だが、「NHK取材班 旅自慢と、知ったかぶり余計情報」だったので、ほとんど読まなかった。運転手は温厚な方でどういふ話をした。そんな文章がだらだら続くだけだった。
次にテレビ東京「封印された三蔵法師の謎」。玄奘は旅費をどうしたのか。そこから唐王朝から資金を貰ったスパイではないか、とする。この書籍が勝れるのはこの説の部分で、それ以外はNHKと同じで「旅自慢と、余計情報」になってしまった。
旅の本自己を出さずに自慢せず 読者が望む情報を余計なものを付け足さず伝へる事が合格の本
反歌
諺に恥は掻き捨て旅の本書き捨てするな恥の上塗り(終)
「初期仏法を尋ねる」(百四十二)
「初期仏法を尋ねる」(百四十四)
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