二千七百九十六(うた)三友量順「玄奘」その二
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
六月九日(月)
第三章玄奘伝は、この書籍の三分の二を占める。しかし内容は、長澤和俊訳「玄奘三蔵大唐大慈恩寺三蔵法師伝」と重複するので、新しい情報のみを紹介したい。
伊吾は、現在の新疆ウイグル自治区哈(ハ)密(ミ)地方
高昌は、現在のトゥルファン
このあと
後に玄奘三蔵の著した『大唐西域記』はこの高昌国をすぎた阿耆尼国(カラシャール地方)から始まっている。当時は高昌国までは漢文化の勢力が及んでいた。

阿耆尼国は
十余ヶ所の寺院に三千余の僧侶たちがいた。文字もインド系のもので(中略)説一切有部を奉じていた。

二百里と七百里を進む
と屈支国(亀茲国・クチャ)に至る。現在の新疆ウイグル自治区の庫車県にあたる。(中略)鳩摩羅什(括弧内略)はこの(中略)出身である。(中略)百以上もの寺院に五千人もの僧侶が住し、説一切有部の教理を学んでいた。

二日ほど進み
跋禄迦(バールカー)国を過ぎ石だらけの砂漠を西北に進むと凌山(ベダル峠)に着いた。ここは葱嶺(パミール)の北辺である。(中略)ここから四百里あまりで周囲千四~五百里もの大きな湖海についた。現在のイシク・クル湖である。(中略)南岸を西北に進むと西域の承認たちが雑居する素葉(スーヤブ)城である。高昌王が親書を宛てた西突厥の統葉護可汗(トンヤブグーカカン)にここで会った。

その後、出発し
『西域記』には素葉水域から西の羯霜那国まではイラン系のソクド(粟特)人たちが住んでいると記している。東西交易で活躍した商人たちである。(中略)ソクド語は中央アジア一帯の共通語となった。文字は縦書きで、ソクド語はウィグルに採り入れられている。

ソグド語はかつて話され今は死語 中期イランの諸語にして 中国イラン双方の商人たちの共通言語

反歌  ソグド語がイスラム化にてペルシャ語へテュルク化もありウズベグ語にも
西に四百里の千泉を経て、百四~五十里で
タラス(咀邏斯城)にいたる。(中略)中央アジアの商人たちが雑居していた。この都城の南、十余里のところに三百戸ほどの中国人たちの居留地があった。かれらは突厥に掠奪され、この地にあつまり(中略)衣服は中央アジア(中略)であったが、言葉や礼儀などは故国のものを失っていなかった。

このあと四つの国を経て、活国へ入る。婆羅門国へ行かうとすると漢字略(バクトラ、今のバリク)に寄ることを勧められる。
仏教伽藍も多く、三千人にも及ぶ僧徒たちはみな小乗仏教を学んでいた。

これは「玄奘三蔵大唐大慈恩寺三蔵法師伝」にもあった。バクトラを発ちバーミヤーンへ入る。国内の様子は「玄奘三蔵大唐大慈恩寺三蔵法師伝」にあったのと同じ。
一行は、東に向かって進み、黒嶺を越えて遂に北インドの境に入った。

法師らは北インドへと境越す その前既に仏法の国多く在り あの当時どちらがよきか判断できず

反歌  インドでは大乗密教ヒンズーと絶えることなく流転が続く(終)

「初期仏法を尋ねる」(百四十四) 「初期仏法を尋ねる」(百四十六)

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