二百六十九、右派と共存する左派の再構築を

平成二十四年
五月八日(火)「社会党に見る左右共存」
社会党は結党したときは右派から左派まで存在する許容度の広い政党であつた。日本の社会主義勢力の急務は右派と共存できる左派の再構築である。

五月十日(木)「右翼と左翼の区分は存在しない」
これまで当ホームページで何回も論じてきたが、右翼と左翼は存在しない。大塩平八郎は右翼か左翼かと聞かれても困るし、高杉晋作や西郷隆盛は右翼か左翼かと聞かれても困る。
右翼と左翼は新聞が戦後さかんに書きまくつた結果と言へる。両者の中間のふりをした既得権勢力が得をしてきた。ただし政治活動をする人も海外の影響を受けて右翼、左翼を自称したことも事実である。まづ海外とは無関係に世の中をよくしようと決意することが重要である。

五月十二日(土)「社会党大会の天皇陛下万歳」
戦後まもなく社会党は大会の終はりに「天皇陛下万歳」を叫んだ。右派が多数だつたと言へばそれまでだが、この包容力の広さは見習ふべきだ。後に講和条約を巡つて左右が対立した。右派の安保賛成は認めがたいが、中間派の浅沼稲次郎の発案した講和賛成安保反対で一旦は全体がまとまつた。
しかし左派の大多数が講和反対安保反対を掲げたため、大会は混乱して右派社会党と左派社会党に分裂した。その後の国政選挙では左派社会党の伸びが特に多かつたがまもなく左右は合同した。このときもマルクスレーニン主義に傾き過ぎることを心配した左派と、昭電疑獄の西尾末広逮捕に危機感を抱いた右派のバランス感覚と言へる。

五月十三日(日)「右派の脱落」
社会党に不運だつたのは右派が脱落したことだ。昭電疑獄で西尾末広に非難すべき点は多いが、西尾派が民社党として脱落したことにより、社会党と民社党はどちらも寛容に欠ける政党になつた。とは言へ社会党の左派から生じる新たな右派には賛成できない。マルクスか社会民主主義かといふ西洋の猿真似に陥つたからだ。私が鈴木派やその後身の佐々木派を今でも支持する理由はヨーロツパの社民党とは異なる道を歩んだからである。

五月十五日(火)「戦前の偏向と戦後の偏向」
社会党大会での「天皇陛下万歳」には戦前の偏向がある。それは「陛下」といふ江戸時代までは用いられなかつた用語に現れてゐる。同じように戦後も英米賞賛といふ偏向がある。だからといつて江戸時代がよかつたことにはならないが、それは人間特に権力者は時間とともに堕落することと、戦国時代といふ武士政権の堕落したものの集大成が江戸幕府であるためである。
戦後の偏向の結果、日本のものはすべて悪く英米のものはすべて正しいといふ奇妙な連中が増へてきた。「ネバー、ネバー、ネバー、ネバー、ギブアップ」の野田はその典型だが、社会党の左右対決もその範疇に入つてしまつた。

五月十七日(木)「地球を滅ぼす文明と滅ぼさない文明」
紙をインクに浸してゐると紙がインクの色になるのと同じで、西洋文明に浸かり続けると西洋文明の色に染まつてしまふ。それにより世の中が不安定になる。日本では明治維新、敗戦、貿易黒字と、西洋文明に染まる時期が三回あつた。特に第三回目は多くの国民は気が付いてゐないが、アメリカが日本の経済力に脅威を感じて意図的にやつた。
第二回目はアジアの民族解放戦線と連動することで、かなり防ぐことができた。当時の安保条約反対闘争、基地反対闘争、三里塚闘争などには反米独立と地球を滅ぼす現代文明への批判といふ二つの側面があつた。

五月二十二日(木)「江田三郎批判」
西尾派が去つた後に、左派から新しい右派が生まれた。江田三郎である。江田の悪い点は「高いアメリカの生活水準」「ソ連の徹底した社会保障」「英国の議会制民主主義」「日本の平和憲法」といふ言葉に凝縮されてゐる(百八十九、江田三郎五月親子批判(社会党左派はなぜ国民の人気を集めたか)へ)。
特に偽善を感じるのが「徹底した社会保障」の部分である。適度な社会保障が必要である。徹底的な社会保障では財政が破綻する。実現不可能なことをいふところに江田の偽善がある。これ以降社会党はソ連型のマルクスレーニン主義を目指すか西欧型の社会民主主義を目指すかといふ不毛な論争となつた。

五月二十六日(土)「民社党と社会党左派」
私が二十歳になつて最初の選挙で投票したのは民社党である。民社党は嫌ひな政党ではない。社会党左派もこれまで述べてきたように嫌ひな政党ではない。マルクス主義か社会民主主義か民主社会主義かといふ論争は無意味である。それより現在の日本をどうするのか、改良を進める過程で既得権勢力となつた人達をどう繋ぎ止めるか、さういう論争をすべきだつた。(完)


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