二千六百九十四(うた)1.尾久客車操車場(その二)、2.品川、上野、都電
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
閲覧注意。鉄道に関し後世に残す情報のため、読み難くなった。

三月二十四日(月)
前回から三ヶ月を経過したので、尾久駅構内の客車操車場(その二)と、尾久以外でも後世の為に残したほうがいい情報を転載させて頂いた。
・隅田川の田端操方の常磐線との両渡りは、上野駅の荷物扱いと思って来たが、上野から荷物が無くなってからも長いあいだ残った上に線路が錆びなかったので、何が走ったか不明。
古くは、蒲田、川崎に貨物扱いがあり、そのときは上野、東京駅を経由して貨物列車が走ることは無かった。これは上野から荷物が移転する前だが。 因みに、川崎は南武線に貨物専用線があったが、東海道線にも一般貨物があった。
川崎駅は、南武線に専用線(東芝と明治製菓)があり、東海道線に一般貨物があり(見たのは廃止後の線路跡)があり、南武線から東海道線まで片渡りがあった。或いは、南武線と東海道線の間で入れ換えをしたのかと想像したが、配線図を見ると、片渡りが無いことが判った。東海道線側の一般貨物の扱いを廃止ののち、保線車両の関係で渡り線を作ったようだ。
本線を跨ぐ入れ替えとして、品川駅の客操と八つ山郡線との入れ替えは、客操から横須賀線下り本線(少し大崎側)で停車し、折返し八つ山郡線へ入れるので壮大。同じ事が川崎でも、と期待したが。
・昭和47~48年だったか正午頃、上野駅の5番線か7番線で、EF13が数両の2軸貨車を連れて下ってきたのに驚いたのを憶えている。秋葉原貨物駅が廃止されたのは昭和50年2月1日。
・隅田川から東京方には昼下がりに荷2935レがあって53-10まではEF15牽引で有名だった。その後EF58が牽くのに出会った。上野東京間の列車線が切られたのは昭和58年。上野駅荷物線略図と高架地平連絡線 昭和30年頃
・鶯谷の高架から地平への坂路、東京方からの荷物車を降ろしていたようだ。
・上野の高架から地平への線跡は、駅構内の入れ換え用機関車移動用だとばかり思っていた。国鉄末期まで上野客車区があり、配属車両と検修庫がない区だった。日暮里方への地平の引上げ線(洗浄線?)だけは客車区かと思ったが、昭和31年の配線図の洗浄線を縮小したものなので、駅構内でしょう。
因みに、東京駅は品川客車区東京支区、新宿駅は新宿客貨車区新宿出張所が、同じようにあった。成田運転区や黒磯機関区の構内が一線だけあったので、上野も、と気にしていた。
・尾久の話題で昨年11月7日に、カシオペアと残存24系が到着線かその西側の線へ移動した。検修庫東にテントが張られた。9日(土)に北区と荒川区と時間を分けて、事前申し込みメールと住所を確認できるものを提示して入場案内を改札南で駅出改札二名でしていた。24系が移動するなんて珍しい。
・荷2935レは、スミ->シナの10番線で、このあと貨物線への入れ換え。これが先日紹介した横須賀線下りの目黒川方へ少し行った上り坂の途中で停車し、折返し八つ山運転室の前辺りへの入れ換え。東海道下りと、横須賀上りを横断し、横須賀下りで停車し、操車担当が先頭から最後尾へ歩いて移動し、入れ替え標識が斜めになったら発車なので、当時の横須賀線は余裕があったのだろう。
・(1.30)尾久の24系が定位置から不在になった。
・昨2月1日15:30頃、オシ24 701のみ出現。ホキ1812を従えて、元いた予備8番の1本東の予備入換線に押し込まれた。残る2両、スシ24 506、オハネフ25 14は、ホキの置き場が変なのでまだ動きはありそう。いつもは3箇所のところ、
 予備6番(検査待ち):1877-1807
 予備8番(元・組替4番。検査終了):1863
 予備入換(元・引上機回。用途不明…予備車?):1812
普段いない場所にも。
 予備5番:1804-1814-1862-1861-1875-1876 (29日に予備8番から移った模様)。
1875、1877の台枠に「休車」の貼紙。
尾久の24系が3両だけになったのは令和3年3月で、その年の11月23日が電子連動化で、以来予備8番在線と思う。昨年11月9日のイベントで到着線に疎開したほか、動いていた記憶はない。昨年夏オシ24の妻面から十数人が乗り込むのを見た。何か予備調査だったか。
・隅田川から品川への荷2935レ、偶然にも東京駅に停車中の姿に出会ったことがあり、牽引はEF1511、後に続く荷物車もオール茶色、撮影は昭和51年(1976)3月。
・二月七日の朝、尾久に従来客車がいた。(昔、12系の車掌室をホームから覗くと、従来客車と連結するときはスイッチを云々、と書いてあったので、国鉄の正式用語なのかと、旧型客車ではなく、この語を使い続けて40年)。一昨年だったか12系が、上野発イベント列車のときに出発線に留置し、電機を赤羽方に連結して、推進で上野へ出発した。
今回の従来客車は、到着線かその西に昨日までで二日間停泊したので、高崎から尾久へ転籍かと予想。高崎は一両ずつ交番検査なのに対し、尾久は6両まとめてできる。交番検査のときだけ尾久へ回送かと。しかし、本日と11日にイベントで使うらしい。連結など実演で1組2名まで5万円。
・機関士さんと操車担当数人が要るし、電車3本の留置箇所を変更して南側をあけて光線と視界を確保し、お客さんを入れるのに隣接の着発2番~5番ふくめ「支障設定」をして…と、立案運営にも手間が。
客車は明日イベント列車に使うのかとも思ったが、案外、尾久の「中の人」が呼びたかったのかも、先日もDD51が2両来て構内を往復したが、動画を撮る社員さんたちが嬉しそうだった。
・連動装置切換後、着発線の入換進路(入換標識)の設定がかなり削られていて、機関車が入れる線は限られている。着発4,5,14~17番の6線(ほか通路線、到着線、南部機回りなど)。
・ライブカメラの録画に四季島の入庫があり、自走だと初めて知った。和(なごみ)を機関車が南側で検修庫へ入出は何回か観たことがあるが、四季島も同じだと思ってきた。
・客車操車場で入換標識が無い線が多いのは驚き。あと着発4,5,14~17番も、電車が洗浄線へ移動する時に入換信号として使うことが多いのでは。
・JR貨物が分離してから、操車の概念が旅客会社から薄くなったように思う。尾久、高崎、水上、会津若松くらいしか使わないと想像。今では誘導の語を普通は使用。これはかつて、駅は操車掛(後に運転係操車担当)、動力車区は誘導掛(後に構内運転係)に源を発するのでは。
水上で機関車を駐泊線から高崎方へ連結するとき、気廻りへ入った所で操車担当は降りてホームを歩き、SLは構内信号機で高崎方へ行き、引き返して客車の手前で再び操車担当が連結の操車をした。品川駅の本線を三つまたいだ大々的な操車は、今では夢。
・二月二十六日、カシオペアを定位置から検修庫へ入れて北側6両だけ残して南側6両が定位置に戻った。二十七日は午前に、南側6両が検修庫へ入り、北側6両を連結して定位置に戻った。夕方に、最後尾だけ残して11両で検修庫へ入り、10両で出てきて定位置に留まった。昨日は仕業検査、本日は1両だけ修繕と想像したが。別の話題で、入換標識の裏側が白色になった。念のため京浜東北線の入換信号機を見たら、裏側は黒のまま。
・諸河久さんのコラムで両国について、「引込線」と呼ばれたのは、この両国引込線と浅草駅引込線(1931年廃止)、それに貨物営業をした中央市場(ちゅうおうしじょう)引込線の三線のみ」とあり、砂町に汽車会社への引き込み線があったという話を聞いたことがあったが、どうだったのか。
・三月二十三日、尾久の話題3つ。1.先日、ホッパー車5台くらいをホーム並行の東北着発線にDE10が入れ替えのとき、梶原踏切側へ行きった。赤羽まで乗った時に見ると、梶原踏切の少し先まで線路が光っていた。
2.和(なごみ)を検修庫から出して再び検修庫へ入れる(おそらく定位置から交番検査線へ)ときに、赤羽側に黄色の車両移動機が行った。尾久で車両移動機を見たのは、初めて。
3.その翌日に検修庫から出すときは、上野側にDE10だった。
尾久常備客車はわずかカシオペア 電車は和(なごみ)もう一つディーゼルも積む四季島と ディーゼル稼働牽引車同じくレール運搬車あり

反歌  カシオペアそして和(なごみ)の機関車が入れ替へするは終はりが近し
反歌  機関車が終了すればカシオペア走れずこれも終了するか
反歌  JR貨物会社に委託して機関車使ふ方法もある(終)

追記三月三十一日(月)
二十五日に飛鳥山へ行ったときに、都電の車体下のスヰッチ箱を写した。中は三路スヰッチ(階段の上と下によく使用して、どちらでも点けたり切ったりができるものと同じ原理で、一つの線から二つの回路に切り分ける)。車庫で保守作業をするときに、万一ビューゲルが上がって架線と接触すると危ないので、電車の回路をビューゲルではなく、接地させるものだと想像した。電線が思ったより細いが600Vなので、電流は多くはないのかな、と思ふ。

 
飛鳥山にて


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