二千六百九十五(朗詠のうた)1.都電一日乗車券(一葉記念館、飛鳥山)、2.追記でお花見日記(4月8日独立させた)
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
三月二十五日(火)
昨日は一日空いたので、母を送り出したあと戻るまでの間に、都電一日乗車券で一葉記念館と飛鳥山へ行かうと計画を立てた。一葉記念館は月曜が休みだが、昨日は開花の時季なので開館する。ところが雨との予報で、延期したところ、実際は夕方まで降らなかった。
本日は午前中仕事だ。母の迎へ入れは妻がやってくれるとのことで、午後に、昨日の予定を実行することにした。都電で三ノ輪橋へ行き、歩いて一葉記念館へ行った。三十五年ほど前に一回来たが、建て替はってゐた。
一葉記念館の展示は、一葉と周りの人たちに配慮した書き方がされ、好感を持った。それに対し、市販の書籍の年表は無遠慮に書くので不快だ。例へば久佐賀義孝が、何回か一葉に妾になれと申し出たことが書籍の年表には書かれる。記念館の年表だと、久佐賀義孝は一葉に、相場師ではなく小説家になるやう勧めた。
幕末には戦があり、明治時代には日清、日露の両戦争があった。そのため、女性が余る。今の感覚で妾を考へてはいけない。あれは、経済に余裕のある人が人助けをしたと考へるべきだ。久佐賀義孝が何回か妾になれと云ったのは、経済援助の申し出だったのではないか。だから何回か申し出があった。今の感覚なら、一回目のときに絶交するはずだ。
一葉の次兄も、市販の書籍では素行不良で分籍したとあるが、記念館では薩摩焼の絵付師として活躍したとある。一時、一葉と母と妹が次兄宅に寄宿したことがあるので、素行不良は不適切であらう。尤も、母と次兄の仲が悪く、一葉は「萩の舎」の中島歌子宅へ移ったが。長兄の病死が、一葉に負担を掛けた。家を継がず一人で生活するなら、小説家として自立できただらう。
日記は焼き捨てるやう妹に遺言したが、妹は大切に保管し、後に不都合な部分を除いて出版されることになった。鴎外が出版に反対した掲示があり、興味深く読んだ。
竜泉寺町の商売は、向ひに同業者が出来て値引き競争になり、しかし一葉の店には客があまり来なくなったのが原因とする。これも初耳だった。記念館を出たあと、一葉の店の跡まで行ってみた。石碑の隣が店の場所。電柱など都合があり、すこし位置が異なる。旧竜泉寺町については、隣に旧町名の説明板があり、江戸時代は竜泉寺村だった。明治に周囲を統合して竜泉町になり、下谷が付いたり取れたり、寺が付いたり取れたりして、今は竜泉になった。
三ノ輪橋から都電に乗り、早稲田まで乗った。帰りは飛鳥山で降りて、桜の咲き具合を見たが、一本だけ咲いて、桜かどうか不明だ。展示してある都電を観た。ずいぶん荒れてゐたが、朽ちてはゐない。北区に敬意を表したい。
園内を王子駅側に歩き、崖下は赤と桃色の花がまばらに付いた木が幾つもある。東北線の車内からは、花が見えない。一本だけ花が多い木があるが、今年はこれから咲くのか散ったのか不明だ。

飛鳥山の崖下
春深く桜のほかも花が咲く 草にも花が木にも花 山の下には桃色と赤がまばらに近くで見ると
反歌
飛鳥山つつじとあじさい名を成すも今は早すぎみかんか桃か
都電の録音車内放送は、早稲田方面が荒川車庫前で「梶原いろは亭は梶原下車です」と放送し、三ノ輪橋方面は飛鳥山で「梶原いろは亭は梶原下車です」と放送する。梶原は既に広告が入ったためだらう。小生は、いろいろ参加して忙しすぎるので、「いろは亭友の会」「上野動物園年間パス」は、今年で終了しようと考へたが、いろは亭が努力してゐるので来年も会員になるか、と考へが変はった。(終)
ここに追記でお花見日記があったが、独立させた。
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