五百二十五、高沼用水(大晦日)、見沼田圃(元日)、新浦和土地改良區記念公園(一月二日)訪問記


平成二十六甲午年
一月二日(木)「高沼用水」
大晦日は高沼用水を訪問した。最初は埼玉大學に行かうと歩いたが偶々高沼用水西縁にきれいな水が流れるのが目に入つた。そこで上流に向つて歩くうちに感じの良い農村風景が廣がつた。雨はづつと降らないのに小道がぬかるから霜が解けたのだらう。幅30cmのぬかるみ道の左は斜面で水路に直結だから危ない。右側を1mくらゐ歩いたところ斜面で滑つて危うく水路に落ちるところだつた。だからぬかるみの中央の傾斜のない部分をすべらないやうに1m歩くのに十秒くらゐ時間を掛けながら30mくらゐ歩いた。それにしても怖かつた。水路は深さが5cmだが落ちたら濡れる。恐怖の30mを過ぎると右側に農作業小屋などが見えた。そこを過ぎたところにある掲示板で河童の森といふ地元の自然愛好家の皆さんの努力の結晶であることが判つた。次にその先を歩き西縁と東縁の分岐點まで歩いた。上流からの水は網のバイパス(幅30cmか)と暗渠を經て西縁に流下する。東縁へは分岐點から1mくらゐ上がつてから流下する。つまり西縁への暗渠は大雨のときは雨水が逆流し東縁に流れるのだらう。
歸路は東縁を下り西縁も終點から歩き始めた譯ではないのでここら邊りだらうと思つて西縁に行つたら偶然といふことがある。河童の森である。また恐怖の30mを歩かなくてはいけない。その前に河童の森を見學した。西縁の水を傳道ポンプで吸ひ上げて農園に放流する。これはよい施設である。
正直に云ふと河童の森といふ命名には反對だつた。もつと歴史に沿つた名前(例へば高沼用水の森)にすべきだがこの努力には全面賛成である。再び西縁を下つたが今度は霜が解けて土に吸ひ込まれたのか滑らなかつた。

一月三日(金)「見沼田圃、その一」
元日は辻用水を上流に歩き元西福寺前分水口から先は見沼代用水西縁を高沼用水分流地點まで歩いた。途中に東京外環道路ができて雰圍氣が變つてしまつたが川口市役所芝支所の高臺は昔と變らない。坂下橋に新道もできてしまつたがそれよりその先のフラワーロードといふ輕薄な名前を何とかすべきだ。
武藏野線の高架をくぐると右に見沼田圃が廣がる。しかし田圃はわづかで農園が續く。農園ならまだよいが許し難いのは調整池を建設中なことだ。調整池には公園を作ることだらう。これは許し難い。調整池には水に滲つても大丈夫な農作物を植へて普段は農地、洪水時には調整池とすべきだ。そもそも調水池が必要になつた理由は都市化で水が土にしみ込まずすぐ流出するためだ。後援にするのだつたら都市部に調整池を作るべきだ。見沼田圃を何とか流用しようとする惡徳政治屋がゐるから監視が必要である。
東浦和驛近くに高校のグランドがあるがこれは昭和五十年頃からあるから問題はない。あと昭和五十年代に田圃から畑に轉換したものもある。これも問題はない。それ以外の土地から見沼田圃から田圃が消へた理由は昭和六十年のプラザ合意である。見沼に田圃は必要である。農地の合併で作業を效率化し再び田圃に戻すべきだ。

一月四日(土)「見沼田圃、その二」
上流に向ひ右側は見沼田圃で農地が續く。左側は緑地保全地域の附近のみかつての光景を殘す。更に上流に歩くと水資源機構との共同管理區間に入る。合口二期工事で利根川で取水した水を見沼代用水西縁を經由して東京と埼玉の水道水に轉用する。
共同管理になつたおかげで水位調整、洪水對策などが水資源機構による高い技術になつた反面、管理費用が高くなつたとひふ内容を見沼代用水の書籍で讀んだことがある。あと用水の三面をコンクリート化し漏水を無くした反面、土手の植生が變化した。
更に上流の高沼用水の分水口で私も分岐し用水に沿つてさいたま新都心驛まで歩いてこの日は終了した。

一月五日(日)「新浦和土地改良區記念公園」
二日は午後に帰宅するので午前中散歩をした。まづ武蔵浦和駅まで歩いた。駅の近くにかつて精神病院があり各病室の窓の外には鉄格子がはめられてゐた。今から二十五年くらい前に開いた窓からお婆さんが「おにいさん、かんざしをありがとう」と外に向ひ叫ぶのを聞いたことがある。その後、病院の名称が変り鉄格子もなくなつた。しかし二日に診療科目を観ると相変わらず精神科がある。空調を整備して窓が開かないようにしたのだらうか。或いは鉄格子が必要な重症患者はゐないのだらうか。
武蔵浦和を過ぎると道路の案内図に「新浦和土地改良區記念公園」とあるのを見つけた。行くと新浦和土地改良區の記念碑と農協合併記念碑がある。新浦和土地改良區は昭和三十九年に始まりその後、全地域の市街化地域編入、大宮バイパスの通過があり昭和五十年に定款を変更し五十一年に完了した。
農協は昭和五十四年に浦和市内の農協が合併したことを記念するものである。

一月五日(日)その二「消えた農村風景」
私が浦和に引つ越したのは昭和四十七年だがこのころは区画整理が行はれたところを除いては農村だつた。見沼代用水西縁の両岸は見沼田圃側に限らず田圃が広がつてゐた。それが昭和五十八年頃西縁の片側だけ田圃が残り反対側はひつしり住宅が並ぶのでその急変ぶりに驚いた。
それでも住宅は木造あるいはトタンで囲んだ家が多く、中には平屋建ての家もあつた。その後、プラザ合意を経て家が大きく贅沢になつた。そして高層マンションが増へた。かつては大きな敷地には樹木があつたが次々に伐採された。今では東京と変らなくなつてしまつた。(完)


変はりゆく浦和の四十年 地下鐵和光市驛から浦和へ

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