104、単産の全国大会

平成ニ十一年
七月五日(日)「全国大会」
昨日は或る単産の定期大会が武州多摩郡府中で行われ、私も代議員として参加した。この単産は連合に加盟しているが代議員が三十数名という小さな単産である。連合は大企業労組の単産がほとんどを占めている。
今後地名は旧国名と郡名を用いることにした。最近の地方自治体名は「さいたま市」や「西東京市」など醜いものが多い。

来賓としてエレベーターの保守作業員のような服を着た若い男性とピンク色の服を着た女性が来ていた。男のほうは社民党の次期衆議院選挙の立候補予定者であった。こちらは社民党のビラで知っていた。ピンク色は誰だろう、辻元清美か、と思っていたら福島みずほだった。福島みずほがピンク色の服を着るわけがない、という先入観による勘違いであった。都議選の真っ只中なので、二人は目立つ格好をしているのであった。NHKのテレビも取材に来ていた。

七月六日(月)「企業内組合を改善するには」
私は、大企業単組で人事交流を行うよう連合で主張することを提案した。日本の労働組合は企業内組合という世界でも珍しい形態である。これでは中小零細労働者と失業者が忘れ去られてしまう。
改善の第一歩として、単組間の出向から始めたらどうか。会社側は昔から実施している。グループ企業間だけではなく、取引先と取締役クラスから中堅クラスに至るまで出向させることがよくある。ところが労働組合はやらない。戦後の労働運動が企業に負けてしまったのは、企業は出向を行うのに労組はやらない。このように考えることもできる。
東芝労組の組合員が日電労組の特別執行委員になる。簡単ではないか。労働協約に自企業の従業員しか組合員にしない、という一条が入っている場合もあろう。改定するまでは顧問、コンサルタントという名目で出向させてもよい。
企業内組合を改善するには大変な困難を伴う。しかしやらねば日本の労働運動はいびつなままである。

七月七日(火)「四項目補強見解」
総評は連合に合流するに当たり五項目補強見解を発表した。
  1. 国民春闘路線の継承
  2. 「反自民」「全野党の協力、共同闘争」
  3. 選別方式は絶対にとらない
  4. 中小企業労組・未組織労働者の援助
  5. 企業主義の克服と社会的責任の重視
このうちの2は他の労働団体の合意が得られず総評自身が取り下げた。しかし残りの四項目は生きている。他企業の人を組合に入れて徐々に企業内組合を崩していかない限り企業主義の克服はできない。私は大会でこのように主張した。
それにしても、総評から連合に加盟した全電通、鉄鋼労連、日教組などは四項目が連合で実施されるよう努力をしているのか。もし遵守されないのなら連合を脱退すべきではないのか。
鉄は熱いうちに打てという。鉄はかなり冷えてしまった。鉄鋼労連は今からでも打つべきであろう。日教組は、教え子が失業者になったり派遣労働者になっていいのか。このままでは「嘘つきは教員の始まり」と言われかねない。

七月八日(水)「連合元会長笹森清氏」
二日目は、連合元会長笹森清氏の「連合運動の20年」と題する講演であった。東京電力労組の浦和分会を皮切りに連合会長に至るまでの話から始まった。私は昔、埼玉県立図書館に行くときに東電浦和営業所の前を通ったことを思い出し懐かしく感じた。
連合というと大企業の既得権組合という悪印象があるが、周りが汚濁した中で笹森氏は唯一がんばったことがよくわかった。笹森氏は連合内では左と言われたが、出身の産別は電力で右なので、左だか右だか自分でもわからないという話もあった。同感である。今は左右で判断すべき時代ではない。

七月九日(木)「国民の冷たい視線」
笹森氏は次のような内容を話した。
昔は鉄道が止まっても国民の共感があった。今は連合に対して国民の冷たい視線がある。外部による連合評価文書にはぼろくそに書かれた。
笹森氏は改善の努力を続けたが、加盟単産の反応は鈍かった。笹森氏の講演内容は九分九厘賛成である。唯一反対なのは、今後の進路として、「少子・高齢化、人口減少社会のシステム・ルール改革」を挙げたことである。その前に「失業・非正規雇用対策」を挙げるべきだった。しかしこれは大企業労組の既得権に縛られた連合ではできないことでもあった。
「電機連合」という連合の中で最も腹黒い単産がある。そこの委員長は一月に日本経団連主催の労使フォーラムで講演し、製造業派遣の規制について「性急な結論を出すべきではない」「多様な働き方を求める人は大勢おり、労働組合としても尊重すべきだ」と述べた。だったら電機連合の委員長が多様な働き方として派遣に従事したらいいではないか。
この委員長は講演終了後「製造業派遣を禁止すると、国際競争力がなくなり、電機産業はやっていけない」と述べた。腹黒い連中である。派遣労働者の犠牲の上に、自分たちだけいい思いをしようとしている。

七月十一日(土)「連合の命は短くて、醜くきことのみ多かりき」
連合初代会長の山岸氏はかなりがんばった。当時は自民党対社会党の対決がまだ続いていた。アメリカによる日本文化破壊政策もまだなかった。左派を切り捨てればヨーロッパ並みの野党政権ができる。そう信じて行動した。一度試みるのは賢明なやり方である。
しかし結果は駄目だった。あの当時、隠しベアや自動車労連の塩路氏の豪遊ぶりが報道され、すでに国民は大企業労組を冷たい目で見ていた。社会主義を目指す総評と民主社会主義を目指す同盟が合流すると、なぜ民主党になるのか。彼らがいかに自分の地位に汲々としていたかがよくわかる。国民の生活なんかどうでもいい。国会議員の議席や労働組合の役職さえ守れれば何でもありだった。
その一方で左派と呼ばれる人たちはどうだったか。隠しベアを指摘するでもなく、中小企業の組織率が低い理由を検討するでもなかった。議員に至っては右派といっしょに民主党に行こうとして受け入れを拒否され、やむを得ず社民党に残留しただけだった。
結局のところ、山岸氏の「左派と右派が傷をなめあっていた」という指摘は正しかった。しかし自民党が労組組合費の天引きを禁止する法律の制定をちらつかせると、山岸氏は腰砕けになった。この時点で連合は改革が必要だった。それをしなかった連合はこの時点で死んだのであった。

七月十ニ日(日)「キューポラのある街」
笹森氏は「一人の五歩より五人の一歩」の話をした。これは国労が言い最初は「キューポラのある街」に出てくるという。
武州足立郡川口のキューポラはだいぶ数を減らし、跡地は今でも次々とマンションになっている。昭和四十九年のオイルショックで川口駅の貨物扱い量が激減し駅長の「日本経済が重厚から軽少に変わったことを痛感している」という談話が毎日新聞の埼玉版に載った。その後昭和六十年のプラザ合意を経て軽少の製造さえ海外に移転し現在に至っている。
マルクスの言った下部構造の変化が早すぎる。このように速いのでは人間はついていけない。共産党でさえ追いついていない。そのことに志位和夫も気付いていないようだ。アメリカかぶれをしている場合ではないだろうに。
そしてついに地球温暖化が始まった。下部構造の変化に合わせて上部構造を変えるのは共産党であり、上部構造を変えないのが自民党だが、今求められているのは下部構造を変えず地球を守ることである。そのためには左派、右派、宗教、伝統派すべての結集が求められている。労働組合にあっては企業主義の克服がまず必要である。さもないと「二酸化炭素削減反対」と言いかねない。

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