二百六十七、左翼崩れ千葉景子批判(その二、法務省発表文書)

平成二十四年
五月四日(金)「死刑の在り方についての勉強会」
千葉景子は法務大臣のときに「死刑の在り方についての勉強会」を鳴り物入りで始めた。といふか騒いだのは大手マスコミだけだつた。しかし千葉はその後参議院選に落選し2ケ月後に法務大臣を辞任した。後任の法務大臣は仙谷、江田五月とこれまで当ホームページで批判をしてきた連中が続いた。今回法務省の報告書を読んだが問題点がある。それは「絞」と「斬」である。報告書の本文では「添付資料18に基づいて」と題して
○律令体制下(奈良時代から平安時代まで)の制度については,養老律令(757年施行)において,主刑の一つとして「死」を規定し,更に「死」については,「絞」,と「斬」に分かれており,一般に絞より斬の方が重い刑罰であるといわれており,検察,裁判権について,死刑については,初審を刑部省が管轄し,その後,事件は,太政官に送られ,誤りがないか判断され,さらに,死刑の執行については,天皇に3回覆奏することが必要とされたこと。
○江戸時代の主な刑罰については,公事方御定書に規定されているが,(中略)死刑は殺人,10両以上の窃盗,放火,姦通など多数の罪に対して課されていたこと。

(中略)の部分には、,鋸挽(のこぎりびき), 磔(はりつけ),獄門などについて説明してゐる。このときは江田に代はり平岡が法務大臣になり、次のように問題発言をしてゐる。
日本の考え方が先進国の一員として国際的にも理解,納得してもらえるような議論を国民の皆さんに展開して欲しいと願っています。と言うのも,2010年現在,世界各国のうちの約3分の1が死刑存置国と言われていますが,OECD の先進34か国に限定して言えば,死刑存置国は,我が国を含めてわずか3か国しかありません。
日本はアジアの一員であつた。しかし明治維新の後に欧米の猿真似を繰り返し朝鮮半島と中国を侵略し先の敗戦に至つた。平岡は先進国の一員といふが、先進国は日本の国情に合はせて政治を行ふ訳ではない。西洋猿真似は国内事情を無視する。野田が支持率21.7%なのに「消費税、消費税」と熱病に罹つたように繰り返すのもこれが原因である。

五月六日(日)「添付資料」
添付資料18を見ると
律令制が実施された時代の死刑は、大宝・養老両律令3の規定では、絞、斬の二種類があった。斬は首を斬り、絞は、今日の吊刑の別称である絞首刑ではなく、首を縊(くび)り、死に到らしめるものであった。いずれも、京においては、東西の市で行ない、衆目にさらしたが、これは刑罰の威嚇的効果をねらったものといわれている。
このように、律の規定では絞、斬の二種類だけであったのが、宝亀4(773)年に放火と盗賊に格殺(殴り殺す)の刑を用いるようになってから、死刑は、絞、斬、格殺の三刑となった。

鎌倉時代になると斬刑以外は廃れる。戦国時代になると死刑には磔(はりつけ)、逆さ磔、串(くし)刺(ざし)、鋸挽(のこぎりびき)、牛裂(うしざき)、車裂(くるまざき)、火焙(ひあぶり)、釜煎(かまいり)、簀巻(すまき)のような残酷なものが行われていた。この時代の磔は西洋より伝来したといわれている。串刺は磔の一種といわれる。
戦国時代は常に人殺しが続く時代だから刑罰も残酷になつたが、外国から残酷なものが入ると一時は日本でも使はれやがて廃れることに注目してほしい。江戸時代の初期のころは戦国時代のものが残つたが、
寛保2(1742)年4月八代将軍吉宗のときに「公事方御定書」(以下「御定書」という。)、ことにその下巻が制定されて、そののち裁判の基準とされるようになった。御定書は鋸挽、磔、獄門、火罪、死罪、下手人(げしゅにん)および武士の閏刑として斬刑を認めており、現在から見れば残酷な刑罰を規定していたが、全般的に見ると、法定刑はそれ以前に比べて緩和されていたといわれている。
御定書が認めていた生命刑のうち、獄門とは、罪人を獄内で斬首した後、捨札(罪人の罪状を記した木札)を立てて、その首を三日二夜、台木の上に晒(さらす)ことをいう。火罪は火焙りであって、古くは色々の犯罪に用いられたが、御定書では放火犯にのみ適用されることになっていた。死罪は庶人を斬首の刑に処することであって、その死屍を様斬(ためしぎり)の用に供し、闕所(けつしょ、付加刑として地所・財産を没収すること)が附加されるものである。これに対して、様物(ためしもの)とならず、かつ闕所も附加されない斬首の刑が下手人である。斬罪は士分以上に適用される斬首の刑であり、その死屍が様物にされることはなかった。以上、諸刑の中、死罪以上は見懲(みごり)の趣意を徹底させるために執行前に引廻しを行い、また獄門以上には捨札を立て、鋸挽、磔等には晒(さらし)が附加され、また死罪以上の刑には闕所が附加された。このほか、武士には切腹の刑があった。

獄門や試し斬りは斬つた後の話だからそれほど残酷ではない。火あぶりは残酷だが放火だけに用いられた。日本のように木造住宅の国では放火は重罪である。今でも死刑、無期懲役、5年以上の有期懲役と殺人罪とまつたく同じである。だから米軍の焼夷弾による空襲は関東大震災と同じ事をしようと考へたもので、重大な戦争犯罪である。
つまり戦の続く時代は例外として、外国の真似をすると残酷なものが入るが、時代が経つと廃れることがここでも判る。

五月七日(月)「海外の猿真似はいけない」
死刑廃止論のいけない理由は海外の猿真似で言つてゐるからだ。海外の真似をするとまづ残酷になり次第に廃れる。死刑廃止自体が被害者とその家族親戚友人など関係者に残酷なものである。そして朝日新聞などの新自由主義のマスコミ自体はもつと残酷である。
死刑の後に被害者の遺族の「死刑になつても気分は晴れない」だとかの言葉を大々的に見出しに載せたりする。遺族だつて世間の手前「死刑になつてよかつた」とは言へない。そもそもそんなことを遺族に質問すること自体が残酷である。朝日新聞は鳩山邦夫法務大臣(当時)を死神と書いたこともある。
新自由主義といふのはとんでもない連中である。(完)


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