二千六百四十六(うた)京阪電鉄京津線と三条駅、浜大津駅
乙巳(西洋発狂人歴2025)年
二月六日(木)
一泊目は、京阪電鉄軌道線のびわ湖浜大津駅の近くだった。軌道線は、京津線と石山坂本線があり、びわ湖浜大津駅で線路が繋がる。京津線は京都市営地下鉄東西線に乗り入れる。
かつて京津三条まで走ったが、京都市営地下鉄東西線が建設され、京津三条と御陵の間が廃止された。代はりに東西線へ乗り入れ、終点の太秦天神川まで走る。
びわ湖浜大津は、初めて聞く駅名だ。その理由は、浜大津を平成三十(2018)年に改称した。京津三条も聞かない名前で、その理由は京阪本線の三条駅を1987年(昭和62年)に地下化し、地上に残った京津線を京津三条と改称した。
京阪本線は三条が終点で、京津線とはホームが縦に繋がり、そのうちの一線は線路も繋がってゐたが1969年(昭和44年)に連絡線を撤去した。1989年(平成元年)に京阪本線は、 出町柳まで延長し、三条は単なる中間駅になった。
小生が三条に拘るのは、中学の修学旅行で三条より30mくらい浜大津寄りの道路沿いに旅館があった。二階の窓から道路を見てゐると、窓の高さが濃い緑でその他が黄緑の電車と、下半分が赤だいだい、上半分がクリーム色の電車が来た。三条で左折し、専用軌道に入った。その時点では、専用軌道がずっと続くと思った。
三条は修学旅行で懐かしき路面電車が専用軌道へ
1991年頃関西を旅行した時に、左折の後はすぐ線路が終はるので、短縮したのかと思った。後に、もともとここが終点だったと判ったが、先が続くと思った理由は、その当時は縦に京阪本線が延びるためだった。1990年に、京阪本線が地下化された。
三条の京阪本線駅地下化今回初めて知る事となる
そして平成二十三年に京都へ行った時は、京津三条は無くなり、地下鉄に乗り入れた。せっかく地下鉄に乗り入れて高速化されたのに、運賃が高くなった。運賃は次の計算方法によるべきだ。
運賃=乗車駅使用料+鉄道乗車料+下車駅使用料
乗り入れは、一番目の鉄道会社の下車駅使用料と、二番目の鉄道会社の乗車駅使用料が不要なので、その分を安くすべきだ。
インターネットで検索すると、東西線開業前は2両編成15分間隔だったが、開通後は4両編成20分間隔で、輸送量は1.5倍になった。しかし乗客は減少した。
年間15億円の赤字で、京阪電鉄は地元自治体との間で、今後の運営についての協議し、2004年に分社化を予定してたが、収支改善が見込めないことから見送られ、収支が均衡した時点で分社化することになった。そして、今でも分社化はされない。
京津線復活するは 観光客呼び込むことで その中に京都市民の比重は重し
反歌
観光客京都市民が鉄道で琵琶湖へ行くを最優先に
びわ湖浜大津駅の歴史を調べると、興味深い事がわかった。まづ国営鉄道の大津駅として開業した。東海道線全通の後は、支線になり旅客営業を廃止した(後に一時復活したが大津電車軌道、今の京阪石山坂本線開通で、再度廃止した)。このころ東海道線上に大津駅が出来、旧大津は浜大津に変更された。
浜大津国営鉄道貨物駅名の付け方に特長があり
1925年に江若鉄道と京阪京津線が乗り入れ、1969年に江若鉄道と国鉄の浜大津駅が廃止された。その間に、江若鉄道が国鉄の膳所まで乗り入れたり、浜大津から膳所まで国鉄と江若鉄道は、京阪石山坂本線の石山方向の単線を三線軌道往復として共用し(坂本方向は京阪単独)したこともあった。(終)
追記二月七日(金)
京津線復活を、上記の歌のやうに京都市民だけに頼ると人数が限られる。京都へ宿泊した観光客に「地下鉄で琵琶湖を見に行かう」の標語で誘導する。次に、京都へ宿泊を計画する観光客を「琵琶湖の湖畔に宿泊し、地下鉄で京都を観光しよう」と大津へ誘導する。
そのために京都市交通局と連携し、地下鉄の一日乗車券に京津線を組み合はせて発売する。
京津線復活するは 全国と全世界から観光客琵琶湖へ呼ぶを第二優先
反歌
京津線復活するに全国と全世界へと夢は広がる
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