二百十二、京都御所訪問記

平成二十三年
十一月四日(金)「0泊三日の旅行」
京都御所の一般公開が十一月六日まで開催されてゐる。私は今まで京都御所には行つたことがないので早速参加した。二日発の夜行バスで京都に行き、三日発の夜行バスで帰つた。往路が四四五〇円、復路が四七五〇円の旅であつた。
普通は旅行が近づくと楽しくなるものだが、今回はだんだんと憂鬱になつた。なにしろ二日連続の夜行バスである。しかし昔の旅人を考へてみよう。歩いて京、大阪まで旅した。行き倒れで亡くなる人も多かつた。それを思へば往復夜行バスといふのは昔の大名旅行より贅沢である。
夜行バスは初めてで、まづ乗客の多さに驚いた。バスが常時十台くらい止まつてゐる。発車してもすぐ次がくる。団体扱だから歩道に各バス会社のアルバイトが計二十人くらい受付をしてゐる。まだ新幹線の経営を脅かすまでにはなつてゐないが、全国の寝台特急が廃止傾向にあるのはこの種のバスにも原因がある。これはよいことだ。民間は厳しい競争のなかで働いてゐる。JRだけが殿様商売をしてよい訳がない。

十一月五日(土)「朝の御苑」
京都には朝六時に着いた。地下鉄で御所に行つた。御所近くのマクドで朝食を食べた。店員の感じがよかつた。店内二階に行つて驚いた。大きなリユツクを持つ若者五人くらいが机にもたれるか椅子に横になり寝てゐる。安い旅行は周囲に迷惑だ。私も往復九千二百円だから人のことは言へないが。
しかし私は世間に迷惑をかけてゐない。彼らといつしよでは嫌だから三階で食べた。
御所の周りは御苑と呼ばれる国民公園である。明治の初期までは公家や宮家の邸宅が二百ほど並んだ。御苑のあちこちに一般公開の縦看板があつた。きつと行列がこの辺りまでできるのだらう。早く来てよかつた。しかし一般公開入口に誰もゐない。少し離れた皇宮警察に聞くと、九時に来ればだいじようぶとのことだつた。私は皇居の一般参賀のやうに長い行列ができるのかと思つた。だから前以つて宮内庁京都事務所に電話を掛け、比較的空くのは昼頃だといふ。しかしもし満員で入れないといけないから朝早く来た。どうも事務所の人と話が合わないと思つたが、先方はすぐ入れるが昼頃が比較的すくと話し、私は長時間並ぶが昼頃は比較的短いと思つた。
時間があるので御苑内の旧跡を見て回つた。

十一月六日(日)「一般公開と五節舞とすべての旧跡」
拝観を終へたのち、御苑の旧跡を再び見て周つた。そして御所に再入場して十一時からの「五節舞(ごせちのまひ)」を拝観した。終はつた後に四十分ほど観たのかと思ひ時計を見ると十六分しか経過をしてゐなかつた。
光速に近づくと時間の経過が遅くなることをアインシュタインは発見した。しかしもう一つある。退屈だとやはり時間は遅くなる。勿論「五節舞」が退屈だなぞとは絶対に言はない。貴重な文化遺産である。
この音楽で時間が光速に近づいたのは日本の音楽教育の欠陥である。明治維新直後ではあるまいし、音楽による西洋化政策は中止し日本古来の音楽をまづ教へるべきだ。
外に出た後は旧跡を三たび見て周り、御苑を退出したときは午後一時を過ぎてゐた。

十一月七日(月)「京都の銭湯に行かう」
今回は御所拝観が目的で長時間並ぶと思つたからあとは午後十一時半まで適当に時間をつぶす筈だつた。ところが早く終はつたからまづ地下鉄で山科に行き
琵琶湖疏水を見た。次に一つ先の東野駅で山科本願寺の跡を観た。この時点では京都の法華宗が焼き討ちしたのは比叡山の本願寺だと思つてゐた。だから寺院といふよりは城のような土塁を見て、世襲の僧侶は欲を離れられないと一方的に一向宗を悪く考へた。
山科から戻つたのちは京都駅近くの銭湯に行つた。JR京都駅から市の中心部側に降りて駅前広場を右側に歩く。そのまま京都タワーに面し、線路と並行の道路を進むと右側に一階がレストラン、上の階がサウナの看板の出たビルがある。ここの三階が銭湯(大人四百十円)である。ここはお勧めである。とは言へマクドの二階に居座つたような連中は来てくれては困る。一般の住民のための銭湯である。

十一月八日(火)「恐怖の電気風呂」
京都の銭湯には電気風呂がある。電極の近くに入るとビリビリするらしい。最初は普通の湯船に入つた。しかし入つてみたいから近くにゐた老人に「電極はどつちですか、東京から来たので東京は電気風呂はないんですよ」とか聞いて電極のない側に入つてみた。その老人も電気風呂は入らないと言うた。(ここだけ促音にせず関西風に書いた)
反対側は特にビリビリしなかつた。しかし電極側に行くのは気が引けてそのまま上がつた。
観光客の皆さん、京都に行つたら銭湯に行かう。そして電気風呂に入らう。

十一月九日(水)「地下鉄一日乗車券を旅路の友として」
京都と言へばビルトッテン氏の居住地である。日本語の得意な外国人は海外にも多数ゐるがあまり有効活用されてゐない。日本の開国とは、日本語のできる外国人を増やすとともにこれ等の人達に就職機会を国の内外で与へることだ。第二の開国と言ひながら国を売らうとする連中が最近TPPで騒いでゐるから警戒が必要だ。ビルトツテン氏は日本の独立について貴重な意見を多数述べ、アメリカ政府から空港で犯罪人並みの詰問など嫌がらせを受けたため、今は日本国籍を取得した。

今回の旅行では地下鉄一日乗車券を活用した。0泊三日の旅となると、京都で心細くなる。休憩の場所もなくトイレに行きたくても行けず時間が余つてもゐる場所がない。
そんなとき一日乗車券は便利である。時間が余れば改札を入りホームのベンチに座つてゐればよい。トイレは駅に行けばよい。時間があれば太奏天神川まで行つて路面電車を眺めてゐてもよい。
山科も琵琶湖疏水や山科本願寺が目的ではなく、着いたら駅前の案内図にあつたので寄つてみた。
月を旅路の友としたのは鉄道唱歌だが、今回は一日乗車券を旅路の友とした。

十一月十日(木)「車内放送は関西アクセントで」
車内放送の録音は東京弁である。あれはよくない。言ひ回しは東京弁でも良いがアクセントは関西式にすべきだ。日本語のアクセントは関西を中心に東西対象に全国に広がる。まづ学術的には関西アクセントが日本の中心である。
どのアクセントが日本の中心かではなく、その土地のアクセントがその土地の中心である。言ひ回しは簡単に直せるがアクセントは一度崩れると元に戻らない。共通語はアクセントは自由とし出身地のアクセントを用ひるべきだ。まづ交通機関が見本を示し、次にNHKなど放送局に採用させよう。

十一月十一日(金)「天皇様は京都在住が似合う」
ビルトツテンと天皇様は京都在住が似合う。鉄道唱歌の四七番に「こゝは桓武のみかどより、千有餘年の都の地」とある。みかどは京都、幕府は江戸、商業は大阪が似合う。明治維新のときに天皇様を江戸城に拉致し征夷大将軍と西洋の国王の真似をさせた結果、世の中が不安定になり農村の貧困や首相暗殺やクーデターが相次ぎ先の敗戦を迎へた。
御所は歴史遺産として現状を保ち、京都迎賓館或いは別の場所に皇居を造営するのがよい。

十一月十二日(土)「アジアに首都は要らない」
みかどを京都、幕府を東京、商業を大阪にした場合に、首都は京都か東京かと心配する人もゐよう。首都といふ考へ方自体が西洋式である。
日本は長らくみかどを京都、幕府を鎌倉や江戸に分離して安定した。室町幕府は京都にあつたから関東では内戦が絶えなかつた。
天皇様が京都に住み文化の中心を京都に移せば、共通語の扱ひも変はる。アクセントは関東、関西、その他地元のものすべてが良いことになる。
明治維新から百四十余年。その間に大恐慌や大戦争やアメリカ属領化があつた。今こそ文化政策を転換すべきだ。(完)


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