二千六百二十九(朗詠のうた)本歌取り、萬葉集巻第七
新春前甲辰(西洋発狂人歴2025)年
一月十五日(水)
巻第七へ入り
山の端にいさよふ月を出でむかと待ちつつ居るに夜ぞ更けにける
山の端に出るをためらふ月待つと俄かに風と雲湧き起こる
次は
ぬばたまの夜渡る月を留めむに西の山辺に関もあらぬかも
夜どほしを僅かに進む西の月沈むは早しまだ陽は見えず
次は
ひさかたの天照る月は神代にか出で反(かへ)るらむ年は経につつ
大昔夜(よる)の戦は望月に運(めぐ)るを願ひ年は経につつ
もともと新月と満月の日は、精神の働きに変化がある。仏法の布薩は新月と満月の日に行はれる。出産は新月と満月の日かその前後か少し過ぎた日に多いさうだ。
夜戦は、明るくて行動しやすい理由もあるだらう。ミッドウェイ海戦は満月を少し過ぎた月齢20だった。最悪運の日になったが。
穴師川川波立ちぬ巻向の弓(ゆ)月が岳に雲居立てるらし
穴森の稲荷と羽田空の口糀谷蒲田大森の海
川崎は厄除け鶴見生麦と神奈川横浜野毛浦の海
本歌が美しいのは、地名だ。本歌取りも美しい地名を並べた。そのあと神奈川編も作った。
あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が岳に雲立ち渡る
みもろつく三輪山見ればこもりくの初瀬の檜原思ほゆるかも
あしひきの山並みを発つ荒川は豊島と足立流れ隔てる
みもろつく筑波の峯とこもりくの秩父の嶺を足立より見る
ここで三諸(みもろ)は、神様がお出でになる山や森、こもりくは霊の籠るところ。本歌の二首は枕詞と地名が美しいので、本歌取りもそれに倣った。
一月十六日(木)
泊(はつ)瀬川白木綿(ゆ)花に落ちたぎつ瀬をさやけみと見に来し我れを
多摩川の堰(せき)から落ちる余り水勢ひ白く逃れは速し
次は
初瀬川流るる水(み)脈(を)の瀬を速みゐで越す波の音の清けく
多摩川の堰より上は瀬を早み川筋深く活きる川かも
本歌は、美しい調べが続く。
さ檜(ひの)隈(くま)檜隈川の瀬を速み君が手取らば言寄せむかも
さ玉川水足速く羽村より四谷へ下る危うし手取る
玉川上水は、かつて人喰ひ川と呼ばれた。太宰治が入水自殺した。
落ちたぎつ走(はしり)井水の清くあればおきてはわれは行きかてぬかも
走(はしり)井は湧き出す水が崖落ちる走り湯崖から熱海へ落ちる
次は
命をし幸(さき)くよけむと石(いは)走る垂(たる)水(み)の水をむすびて飲みつ
石走る滝の下には座る場がいで湯公け園にある寺
(この歌の背景は資料集へ)
一月十七日(金)
悔しくも満ちぬる潮か住吉の岸の浦みゆ行かましものを
引く潮は新田義貞投ぜしの剣か又は時の流れか
「投ぜし」は文部省唱歌「鎌倉」の本歌取りだが、過去の助動詞「し」は、口語過ぎない口語、文語過ぎない文語を目指す小生の歌にとって、使ふ価値があることに気付いた。
雨は降る仮廬は造るいつの間に吾児の潮干に玉は拾はむ
宿の夜雨音明日の街めぐり日の出とともに潮騒と知る
この辺りの本歌は、自然環境の事実を詠ふ。そこに歌の目的を探すと、定型化の美か。言霊信仰なら、定型化による崇拝か。小生の歌作りの目的と同一だ。
名児の海の朝明(け)のなごり今日もかも磯の浦みに乱れてあるらむ
満ち潮や嵐ののちに浜行くと生き物の棲む潮だまり見る
次に
霰降り鹿島の崎を波高み過ぎてや行かむ恋しきものを
鹿島には霞ヶ浦に北浦と香取に並ぶ神の宮あり(終)
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