二千六百八(朗詠のうた)左千夫の歌を本歌取り(その二)
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
十二月二十九日(日)
明治三十八年は、本歌取りしようと思ふ歌が一首もなかった。三十九年に入り
奈良井川さやに霧立ち遠山の乗鞍山は雲おへるかも

奈良井川 木曾駒ヶ岳北にある茶臼山より奈良井経て松本の西流れ去り 梓川へと合はさりてそこから下は犀(さい)川に 更に下りて千曲川合はさり少し下る後名変へ名高きあの信濃川

反歌  松本の西から見れば乗鞍は僅かに近し街中よりは
その次の二首は
菅の根の長野に一夜湯のくしき浅間山辺に二夜寝にけり
殿山のたをりを過ぎて湯の原にわが行くみちに花折る少女児

浅間の湯山辺の湯とはすぐ近く殿山の下不動の滝下
山辺の湯浅間の湯とは隣にて湯の原藤井御母家(三文字で、おぼけ)より成る

そのすぐ次は
みすゞ刈る南信濃の湯の原は野良の小路に韮の花咲く

みすゞ刈る南信濃は木曽飯田中信濃には浅間と山辺

一首飛ばして
湧くみゆのぬるくしあればさびしちふ苧桶(二文字で、をぼけ)はめぐし惜しき苧桶や

里山辺御母家はばあさん出た地(ところ)嫁ぎ松本更に浅間へ


十二月三十日(月)
明治四十年に入り
やまとには花はあまねし然れどもまこと尊とき小金井の花

小金井は堤の桜玉川の速き流れに花は澱まず

先へ進み、詞書に臺灣臺南とある。欄外の注釈にも臺灣臺南市(土屋文明、山本英吉編集)とある。台湾の台は、正字体でも台ださうだが、当時は此れが一般だったのだらう。
先へ進み、磯の月草の段落は、勝れた歌が多い。
九十九里の磯のたいらはあめ地の四方の寄合に雲たむろせり

九十九里 大網からは近くとも 日の本の端海見れば日付け変はりて昨日へ続く

反歌  九十九里西の銚子は魚の街此処は砂浜夏に来る海
すぐ次は
秋立てや空の眞洞はみどり澄み沖べ原のべ雲とほく曳く

秋立ちて空青く高く陽は強し暑さ和らぎ天つ国かも

すぐ次は
ひさかたの天の八隅に雲しづみ吾が居る磯に舟かへり来る

日は西へ弱り沈みて目の前に昨日の海ゆ月出づる見ゆ

これで明治四十年を終へる。

十二月三十日(月)その二
明治四十一年に入り
天地のめぐみのままにあり経れば月日楽しく老も知らずも

天地のめぐみ壊すは西の洋(うみ)この星守れ老を乗り越え

富士見短歌会の段落の
空近き富士見の里は霜早みいろづく草に花も匂へり

駅近き富士見の園は左千夫らの歌が迎える昔も今も

(富士見公園訪問記)
明治四十二年に入り
人の住む国辺を出でゝ白波が大地両分けしはてに来にけり

人さはに住む街を出て山来れば空と頂き分かれずを見る

次は「信州数日」の段落。六人の歌会。松本より「薄暮浅間に至る。(中略)家は小柳の湯といふ。楼上極めて遠望に富めり。」と詞書にある。
数年前の話で、母が通ふデイサービスに、浅間温泉の旅館経営者の家族(娘か嫁か)が来た。母に紹介したので、小さな旅館を云って失礼になるといけないので、小柳か訊いたらそんな大きなところではないさうだ。
常世さぶ天の群山朝宵に見つつ生ひ立つうまし信濃は

群山が天(あま)支へする信濃には心を洗ふ空の気(いき)あり

すぐ次は
とりよろふ五百津群山見渡しの高み国原人もこもれり

此の歌は勝れ過ぎて、本歌取りできない。その次は
秋風の浅間のやどり朝露に天の門ひらく乗鞍の山

湧き出でる浅間の宿へ土の門(と)を超え健(すこや)かを保つ神の湯

明治四十二年を終へて、明治四十三年以降は本歌取りにする歌が無かった。(終)

(1.17追記)
不動の滝資料集
浅間温泉に少ない水量の滝があり、近くに寺がある。浅間温泉観光協会のホームページに
不動の滝
大正六年浅間公園をこの地に寄附を集めて作った時、滝を作り不動明王を祭った。(以下略)
不動院
江戸時代上浅間の三才山道の傍らにあった不動院は明治四年廃寺となる。ここの不動院は昭和一五年宗教結社。

祖母が、あの寺は檀家がなくて半強制的にお布施を集めに来る、と語ったことがある。

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