二千六百十四(朗詠のうた)赤彦の歌、その二(付録、二つの茅場町)
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
一月三日(金)
歌集「太虚集」に入り
栂の木の木立出づればとみに明かし山をこぞりてただに岩むら
夕ぐるる国のもなかにいやはての光のこれりわが立つ岩山
天の原日は傾きぬ眼のまえにただ平なる偃(ハイ)松の原
はひ松のかげ深みつつなお照れる光寂しも入日のなごり
星の夜の明かりとなりぬ目のまへにいくばくもなきはひ松の原
連作の美。単独だと、一首目はそれほどではない、と短絡してしまふところだ。
林より出れば眩しく慣れたのちそこは山道岩肌を行く
夕の日は止まることなく弱まりて岩にわずかないやはての筋
日の本も日は傾きてこれからは星月光る天の原為す
這ひ松は寒きを好む枝葉ゆゑ沈む夕日の光も寒し
月の夜にかすか輝く這ひ松は崖を隔てる道標(しるべ)かも
次は
この日ごろ堅く凍れる庭の土にさす光さへ蹙(しじ)まりにけり
埼玉は江戸より寒く霜堅く陽もより強く冷たく光る
最初は「みやこ」を用ゐたが、京都と間違へる虞があるし、関東大震災以前の郡部を含まないやうに推敲で「江戸」に変へた。(朗詠のうた)には「江戸」が似合ふ。昔の豊多摩郡(中野区など)や豊島郡(豊島区など)と埼玉南部の気温はほぼ同じ。
「生々諸相」段落の、ひよこを詠んだ十首は勝れた内容で、手も足も出ない。初めの二首を紹介すると
親鶏の腹の下よりつぎつぎに顔現るるひよこらあはれ
静まりて親の嘴(くちばし)をつつきゐるこれのひよこは遊び倦みにけり
次は
いく久につづく旱りに蝉さへも生れざるらむ声の乏しさ
少しづつ暑くなる星野の生きもの滅ぶを防げ西の洋越え
関東大震災、本所被服廠跡、二百三高地、乃木将軍一子戦死の跡、戦死者納骨堂と続く。一首選べば
年月はとどまることなしこの山の岩に沁み入る夕日の光
年月は過ぎるも岩に沁む血潮張作霖を殺した後も
次は
わたつみの空わたる日の沈むまで一つの船にあふこともなし
わたつみに船会はざるも空の青陽が沈むまで消えることなし
一月四日(土)
歌集「柹蔭集」に入り
谷寒(さむ)み紅葉すがれし岩が根に色深みたる竜(りん)胆(だう)の花
秋深く日は弱まりて山道の岩に露あり土に霜あり
次は
湯の中に肩沈めゐて心(うら)安し音して過ぐる山の上の風
湯に浸かり外は風音小屋までは入らず湯気も消えず心(うら)安
これで歌集「柹蔭集」を終了し、この書籍先頭の「歌集 馬鈴薯の花以前」に戻り見て行きたい。明治二十六年の
打ちよする波の響に夕千鳥なく声寒し風はやの浦
風吹けば川の岸にも波寄せるうみねこの声波音を消す
明治二十七年に入り
むら雨のなごりの露をまくらにて千草の床に鈴蟲のなく
夕立の名残りの暗さ牛蛙呼び寄せられてぼうぼうと鳴く
明治二十八年に入り
まがね路はしる車の夕けぶりおもげに見えてさみだれのふる
くろがねの路行く汽車は黒けむり夕暮れ暗くみな黒く見る
明治二十九年を飛ばして三十年は
雪白き越の高ねを吹きこえて信の路わたる木枯の風
冬の風越に大雪降らせのち利根に沿ふおか土埃(ほこり)舞ふ
次は詞書に「町外れの静なる住ひいと心地よし。家裏は庭を隔てて広き空地に向ひ、その片隅に牛小屋をしつらへたり。(以下略)」とある。
堅川の茅場の庵は青田風時じくに吹く椎の若葉に
科野には見し事のなき椎の木の青葉のしげみ庭先に立つ
茅場町 江東橋へ名を変へてこれは墨田区 日本橋茅場町には中央区 かなり隔てた二つの茅場
反歌
引っ越すは一つを二つ間違ふは二つの茅場左千夫の庵
小生は今まで、左千夫が日本橋から錦糸町駅前、そして大島と二回引っ越したとばかり思ってゐた。汽車会社を調べて、引っ越しは一回だと気付いた。似た間違へは他の人にも多く、家は茅場町で牧場は錦糸町だとか、家は茅場町で錦糸町の平岡工場まで牛乳を売りに来た、を見つけた。また、牧場が広いのだらうと思ってゐたが、赤彦の詞書で牛小屋だと判った。(終)
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