二千五百五十三(うた)頭陀行と遊行から、良寛和尚渡清説は有力に
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
十一月十七日(日)
良寛和尚は、頭陀行であり、遊行だった。これが前回1.中村元「原始仏典を読む」2.定住と遊行の結論だった。良寛和尚がこれらに到る誘因はまづ、西行、寒山詩だ。良寛和尚は道元和尚に若い時傾倒したものの、その後はそれほどではなくなった。そもそも道元和尚は遊行をしなかった。京都から福井へ移ったのは、新しい定住である。
良寛和尚が円通寺を出たあと、すぐに遊行をしたとは思へない。あのときは道元和尚に傾倒した時期で、道元和尚のしなかったことをする筈がない。やはり渡航し、帰国ののちに遊行したのではないのか。西行と寒山詩に影響を受けて遊行したのではなく、遊行を続けるうちに西行と寒山詩に親近感を持ったのだらう。
渡航説とは無関係に、南伝仏法と良寛和尚から初期仏法を探すと、渡航説を推進する結果になった。
円通寺良寛和尚退出後行方不明と 頭陀行の遊行続ける誘因を 探すと到る渡清の説へ

反歌  渡清説一部の人が嫌ふとも半僧俗に向ふべからず
渡清説に反対するのは構はない。しかしそのため混同を持ちだして、読経も坐禅もせず一日ぼうっとしてゐた筈がない。そんな非僧者に、人々が食べ物を寄進する訳が無い。

十一月十八日(月)
ここで道元和尚と呼ぶことについて説明すると、道元と呼び捨てのほうが失礼だ。歴史上の人物は敬称略が普通だから、失礼ではないのだが。
道元禅師の呼び名はよくない。禅師とは勝れた僧の称号で、禅宗に限ったことではない。道教は太政大臣禅師と呼ばれたが、道元和尚を道教と同列に扱ってよいのか。それよりもっと大きな問題は、永平寺と総持寺の住職のみを禅師と呼ぶと、その他の僧は禅僧ではないのか。
曹洞宗では、道元和尚と瑩山和尚を両尊と呼ぶ。永平寺と総持寺の開山だが、瑩山和尚は永平寺第三祖義介和尚が内部対立で半ば追ひ出され、その弟子だ。つまり道元和尚とその三代後を両尊とすることは、釈尊や達磨大師から見ればどちらも途中だからだ。
小生が良寛和尚と同じ称号で呼ぶことは、両尊に対する最大の尊敬である。因みに大和尚と云ふ言ひ方は
大和尚総身に智慧が周り兼ね戒律禅定同じく劣る

良寛和尚を大和尚とは呼ばないので、大和尚を批判対象にしてみた。称号を増やすと、特権意識や差別の原因になるので、廃止すべきだ。

十一月十八日(月)その二
良寛和尚が渡航したと思はれるもう一つの理由は、漢詩に平仄を用ゐなかった。実際に清国へ行かないと、使はなくてよいとは考へない。飯田利行さん
良寛さんの詩は、平仄法には、まるで無頓着であったが、平仄法がもたらす音調美は、充分に留意しての構成法をとっている。良寛さんは、古来の日本詩人が試みなかった華音つまり中国音によって音読法を意識していた。しかも良寛さんは、これを唐琴によっての琴曲として節づけることも可能にした。

平仄法がもたらす音調美と華音による音読法は、実際に渡航しなければ出来ることではない。飯田さんが、柳田聖山さんの渡航説に賛成したのは肯ける。飯田さんは、漢詩から渡航説に賛成した。小生は良寛和尚が円通寺を下山した後の空白期間から渡航説に賛成した。国内に居たのなら、そのことを云はない筈がない。貞心尼には云ふだらう。
円通寺下山の後の空白は渡航説にて解決できる
(終)

「良寛和尚と漢詩和歌、初期仏法を尋ねる」(百二十一) 「良寛和尚と漢詩和歌、初期仏法を尋ねる」(百二十三)
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