二千五百三十八(うた)北嶋泰観「ダンマパダ」その三
甲辰(西洋未開人歴2024)年
十一月三日(日)
ダンマパダを読み進むうち、十一月一日に「このあと異変が起きる。ダンマパダの偈が複雑になり、因縁物語も複雑になる。此の辺りから後世の作か、との思ひがある」と書いた。どうやら第三「心の章」が原因のやうだ。この章のなかでは71の
悪行をした後の業[カルマ]は、牝牛から絞り立てた新鮮なミルクのようにすぐには凝固しない。しかし、灰におおわれた炭火のように、愚かな人について行く。

因縁物語は、多くの人から尊敬されてゐる辟支仏の話を聴くためには、私有地を通らなくてはならない。地主は、土地が踏み荒らされることを嫌ひ、辟支仏が留守のときに建物を焼き払った。怒った辟支仏の弟子たちが、地主を殴り殺した。地主は阿鼻地獄へ落ち、更に現世をさまよってゐる。仏陀は以上の話をされた。
ここで注目するのは、辟支仏だ。独りで覚り、独覚とも呼ばれる。他人には説かない。因縁物語に辟支仏が登場するのは、仏陀時代の証拠だ。仏法が広まった後は、辟支仏が出て来ないし、出てきても周りに知られることは無い。
辟支仏に弟子がゐるのと、地主が焼き払ったのに弟子たちは地主を殺した。地主が阿鼻地獄なら、弟子たちはどこに堕ちたのだらうか。この二つが疑問だ。
辟支仏その弟子たちは殺人でどこへ堕ちたか 地主より悪き行ひ この話仏陀の時代今蘇る
反歌  仏法は前世に非ず此の世にて修行し仏になられた教へ
ダンマパダ75は
ひとつには、供物を求める道があり、もうひとつには、涅槃にいたる道がある。(以下略)

因縁物語は、ティッサが阿羅漢になった。師匠が会ひに行くことになり、多くの長老が従った。高名な長老たちが来るので村人たちは期待したが、ティッサに説法させようとして騒動が起きる。そこで仏陀が出掛け、説法を聴いた村人全員が預流果になった。
この話で注目するのは、騒動を起こした村人でさへ仏陀の説法を聴き預流果になった。当時は、預流果に簡単になれたとも取れるし、預流果は後世に作られ村人は覚りの入口だったのを預流果に割り振ったとも取れる。間違っても、仏陀の時代に生まれたこと自体、前世の縁起だ、と取ってはいけない。
第六「賢者の章」では76に
(前略)自分の誤りを指摘して厳しく教えてくれる賢者につかえよ。
このような賢者に仕える日には、より善いことだけがあり、悪いことはない。

因縁物語には、年老いたバラモン僧が、僧院で雑用をして比丘たちから生活に必要なものを頂いてゐた。当時の仏法は、バラモン教と敵対しなかったことが分かる。

十一月三日(日)その二
第七「阿羅漢の章」に入り92は
蓄えることもなく、食に於いて適量を知り(以下略)

因縁物語は、托鉢で施しを受けた食物を乾燥させ保存し、托鉢せず瞑想をした比丘がゐた。仏陀は、食物の保存を禁止し、しかしこの比丘は、戒律に定める前なので不問にした。
この偈を取り上げたのは、「蓄えることもなく」の解説に四依法として
(1).乞食による出家生活。
(2).糞掃衣(ぼろ着れを縫い合わせた衣)による出家生活。
(3).樹下住による出家生活。
(4).陣棄薬(牛の尿を薬として使う)による出家生活。

良寛和尚の生活そのものであった。厳密に云へば、保存食を使はなかっただとか、陣棄薬だとか、文面通りではないが、時代と地理上の差だ。インドは暑いし、越後の冬は雪が積もる。
四依法は原始時代の決まりにて 陣棄薬しか無き故にこれを薬に使用する 江戸時代には薬ありこれら使ふに問題は無し

反歌  釈迦仏と良寛和尚時代差を無くせば共に同じ修行か
反歌  釈迦仏と良寛和尚比べるに達磨大師を入れて解決
第十「暴力の章」では142の
例え華麗な衣装を着てもふだんと変わらず、その行動が静寂で慎みがあり、自己をよく調御し、必ず結果をもたらす修行をしている、又。行きとし生けるものに暴力をふるわない、まこと、彼こそバラモンであり、沙門であり、比丘である。

バラモンと、沙門比丘を同格に扱ふところに注目した。

十一月六日(水)
第十一「老いの章」は、好きな章ではない。146の
(前略)この世は[無知無明という]庵愚に覆われているのに、何故[智慧という]燈明を探し求めないのか。

偈に問題がある筈はない。ところが因縁物語は、五百の良家の息子たちの妻は、それぞれとんでもない酒飲みで、僧院でまで隠し持った酒を飲み、堂内が暗くなり仏陀の眉間から暗い青色の光が放たれ、仏陀は本堂から消えて須弥山に現れ光を放つと明るい世界になった。こんな酷い話は珍しい。非科学的なだけではなく、非仏法的である。
法華経にも、釈尊が光を放つ似た話があり、法華経で二番目に嫌ひな話だ。一番目は、釈尊は元から仏だった(久遠実成)話だ。南伝仏法にも、釈迦牟尼が何回も生まれ変はる経典は多い。これらは、釈尊が神格化された後に作られた。
釈迦牟尼は前世からの縁起で、今世に修業を志した。そして今世の努力で成仏した。これがよいではないか。
小生の考への根拠は、達磨大師の不立文字、或いは良寛和尚の、釈尊は本来は経を説く必要は無かった、に依る。
この先の偈では、因縁物語に死体は腐敗して醜い話が続く。この章は146を含めて、因縁物語は後世の作ではないか。
第十二「自己の章」も好きな章ではない。ここで仏陀は、聴く人に応じた話をしたことを思ひ出した。これまで好きではなかった章は、人によっては合ふのだらう。或いは、比丘から説法で聴けばすんなり入るが、独りで読むと駄目なのだらう。
ダンマパダは、順番に読んではいけない。合ふものを読むか、比丘から説法として聴くべきだ。これが結論になった。(終)

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