二千五百三十二(うた)北嶋泰観「ダンマパダ」
甲辰(西洋未開人歴2024)年
十月二十八日(日)
北嶋泰観さんが編集、発行した「こころの清流を求めて パーリ語ダンマパダ」全五巻を頂いた。北嶋泰観さんについては、中外日報の平成7年1⽉28⽇号に
神⼾と⼤和郡⼭の⼆重⽣活
●ウイラ 異⼈館街で知られる神⼾市中央区北野町のスリランカの⺠芸品と⾷事の店・ウイラの北嶋泰観店主夫妻
は、兵庫県南部地震のあった翌⼗⼋⽇、神⼾を脱出し、北嶋⽒の⽗親・正治⽒のいる奈良県⼤和郡⼭市⼩泉(中略)に避難した。北野町から阪急電鉄の⻄宮北⼝までは、徒歩で七時間を要しての苦難の⾏程であった。⼗七⽇の夜は北野⼩学校に逃げ、グラウンドで⼀夜を明かしたが、三分間おきの余震の恐ろしさに眠れず、昨年から⼼臓病を患った妻を助けるため、とりあえず神⼾から離れることを決断した。北野町は、被害の⼤きかった沿岸部に⽐べ倒壊した⼀般家屋は殆どない。しかし、重要⽂化財の「⾵⾒鶏の館」で、レンガ製の煙突が壊れたように、ウイラも屋根の⽡がズレたり、建物の壁が落ち、中の商品の三割ほど倒れた。同店は、中外図書室で紹介している『ダンマパダ』の邦訳を⾃費出版している。北嶋⽒は、このシリーズだけは、どうしても続けたいのでと、⼗九⽇から⼆⼗⽇にかけて⾞で再び北野町に⼊り、⼤和郡⼭市に持ち出すことに成功した。北嶋⽒は『ダンマパダ』の説かれている仏陀の教えの⼀節「危機に⾯した時ほど、⾃分の⼼を明るく持っていく」ことに従って⾏動した。「このような状況化では、頼れるのは⾃分だけという気持を失ってはなりません。外国⼈は、その⽇のうちに友⼈を頼って神⼾から避難しました。被災地の⼈にとって⼤切なことは、⾐、⾷、住の確保であり、まずは疲れた体を休ませて、平静さを取り戻すことです。今こそ仏教の教えが必要な時ではないでしょうか」と北嶋⽒。⽒は、⼆⼗四⽇にも北野町に帰り、店の後かたづけをした。「これからしばらくは、北野町と⼤和郡⼭市を往復する⽣活が続くでしょうが、この店を続けるかどうかは、⼀、⼆ヵ⽉ほど様⼦をみたい」と、恐怖の体験からの再起を⼒強く語っていた。
ウイラの住所を地図で見ると、今は別の店がある。五巻の書籍を引き継いだ「ダンマパダこころの清流を求めてを広める会」は、一巻0冊、2巻から5巻は203冊から653冊あることを確認し、それと同等程度の未開封(場所が無い為に調べられない)があることから、一巻を300冊増刷し、203組を無料配布した。
そのうちの一組を頂いて光栄なことだった。賛同者からの寄付で増刷し更に無料配布する予定なので、小生も寄付をしようと思った途端、あることが引っ掛かった。北嶋さんの書かれた「はしがき」に、
1.デンマークの言語学者がラテン語に訳してから、世界中で今もなお翻訳されてゐる
2.スリランカのナーラダ大僧正著と、ミャンマーのビルマピティカ協会発行の『ダンマパダ』、米国のハーバード大学東洋シリーズ『仏教伝説』(第28から第30巻まで)を基礎資料に、学術的見地からではなく、一般の人びとが気軽に読める
で発行したとある。
北嶋さんの熱意は、これから小生が述べる些細な事より何百倍も尊いが、小生が心配するのは
1.ダンマパダは南伝の経典で、しかも北伝のやうにサンスクリットや漢訳ではなく、釈尊時代の言語だから尊いのであって、デンマークの学者がラテン語にしたから重要なのではない
2.日本語、パーリ語、ミャンマー語、シンハラ語で完結するのに、英語とアメリカの大学が絡んでしまふ
そのため、配布は600組に留めてほしいとの思ひから、寄付は辞退することにした。その代はり、北嶋さんとこの書籍を、大いに賞賛することにした。
北嶋さん 題名とほり清流の心を持ちてダンマパダそして因縁物語 両者含むは日本で初か
反歌
北嶋さん熱き心と清流の心を持ちて後世の為
十月二十九日(月)
ダンマパダの3は、
(前略)怨みを持ち続ける人たちに、怨みの鎮まることはない。
4は、
(前略)恨みを持たない人たちに、恨みは鎮まる。
二つの偈の因縁物語は
年老いてから出家したティッサ(Tissa)長老は、新入りであるにもかかわらず、仏陀の従兄弟であることを鼻にかけ、先輩の比丘たちに敬意を払わないばかりか、サンガに入門した比丘としての務めも怠った。
(中略)やがてティッサ長老はみんなからいじめられるようになった。立腹した長老は、仏陀のところへ出かけ、このことを訴えた。
仏陀は、(中略)みんなにあやまることをアドバイスされた。しかし、ティッサ長老が拒否の態度を示したので、仏陀は「ティッサよ、お前は前世においてもやはり同じ態度をしたのだよ。他の比丘たちに恨みを持つのではない。恨みを持たぬ行動だけが、恨みを静めることができる」と説かれたのである。
今回この二つの偈に注目したのは、サンガが社会の縮図だ。初期仏法はこれがサンガの姿で、サンガが変はったのはアショーカ王のころか。
釈尊のサンガは社会の縮図にて 事件もあれば問題の在る比丘もゐる アショーカ王統治の時に大きく変はるか
反歌
アショーカ期サンガ拡大二十の派比丘は質でも向上果たす
十月三十日(水)
北嶋泰観さんをインターネットで検索すると、パーリ学仏教文化学会は2020年8月に
(氏名省略)の4名から入会の申し込みがあり,要件を全て備えていることにより,入会が承認された。また,北嶋泰観(ほか3名は省略)の4名より退会希望が提出されたことが報告され,退会が承認された。
とある。同会は会則に
普通会員の資格は学部卒業後二年(修士)と同等以上の研究者とする。会員数は百名以上とする。
とある。北嶋さんは、国内で百人に入る研究者であった。
ダンマパダの6は
愚かな者は、われわれが、この世で死ぬべき存在である、という事実を知らない。
[賢い]人々は、これをよく知るので争いは止む。
因縁物語りは(要旨)、
コサンビーと云ふ町に、二つの比丘のグループがあり、一つはサンガの中で持律師を中心とし、もう一つは説法師を中心とするグループだった。互いに主義主張を繰り返し、ささいな喧嘩から騒ぎになった。仏陀は静かに町を去り、森の中で雨期を過ごされた。町の信者たちは、以前のやうに食事や施しをしなくなり、皆がひもじい思ひをした。
雨期が終はり、アーナンダ尊者ら五百人の比丘が森を訪れ、これまでのことを詫びて、町に戻ってきてほしいと云ふ信者たちの声を伝へた。
町に戻られた仏陀は、比丘たちを穏やかに叱った。
この因縁物語も、昨日と同じで社会の縮図である。アーナンダ尊者までが、争ひに加はった。もう一つ注目すべきは、持律師と説法師の存在である。瞑想師ではない。仏陀の人気の秘訣は、持戒と説法だった。
持律師と説法師との争ひにアーナンダまで加はりて 仏陀が森に退けば比丘らは詫びて元へと戻る
反歌
戒律と説法により瞑想は自然と起きて三学揃ふ(終)
追記十月三十一日(木)
一、南伝の経典の特長として、二十八日に挙げたパーリ語のほかに、保持して来た僧団が現存することが挙げられる。スリランカ、ミャンマー、タイなどで、一旦滅びても他の国から戒を取り入れ、再生し現在に繋がる。
二、英語の弊害は、2000年に怪しげな朝日新聞記者が英語公用語論を発表したことに始まる。小生はそれまで親米だったが、反米に転じた。北嶋さんの書籍は1992年から順次出版されたので、英語が絡んでも無罪である。
追記十一月一日(金)
仏陀が亡くなった後に、経を暗記して後世に伝へた。経を暗記する比丘が説法師か、と一瞬考へた。しかし説法師も持戒を受けてゐるから、持戒師の役割が極めて低くなる。この因縁物語は、仏陀の時代であらう。
「良寛和尚と漢詩和歌、初期仏法を尋ねる」(百十三)
「良寛和尚と漢詩和歌、初期仏法を尋ねる」(百十五)
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