二千四百八十九(朗詠のうた)良寛和尚の歌を鑑賞
甲辰(西洋未開人歴2024)年
九月二十日(金)
良寛和尚に関して、暫く詩の鑑賞が続いたので、久しぶりに歌を鑑賞した。第一感想は、布留散東の前半が旅物語で美しい。旅物語には、国上に定住の後も含まれる。前半とは37から41までか。幅があるのは、厳しく見れば37まで、緩やかに見れば41まで。
「定本 良寛全集 第二巻歌集」(内山知也、谷川敏朗、松本市壽)の解説(松本市壽)には、初期の歌は新古今の影響があり、大村光枝が国上を訪れてから万葉風になったとする。
小生は逆を感じた。前半は万葉風、後半は古今風。松本市壽さんは、語彙から前半を新古今、後半を万葉とした。小生は、題材や内容から判断した。
歌を詠む使ふ詞(ことば)はよろづはに非ずと云へど風はよろづは
九月二十三日(月)
前半は詞書が無い。後半は詞書がある。これも、前半が万葉風、後半が古今または新古今といへる。例外は、前半の一首目から七首目までは詞書がある。しかし短いし、詞書を読まなくても歌を鑑賞できる。
後半は枕詞がある。そして、枕詞を読まなくても、古今又は新古今と感じる。
詞書在りと無しとに関はらず 後ろの歌はよろづはに非ざる故は 国上にて力を抜きて落ち着くか しかし仏の道は外さず
反歌
進みゆく若き時から歳を取り力入れずに円き心に
九月二十五日(水)
「久賀美」は、木村邸の庵へ移り二年後に完成した。「久賀美」は万葉調である。想像するに、良寛和尚が五合庵に住むやうになり、今までの厳しさが緩和した。そこで歌も古今または新古今と感じるのだらう。
その後、修行を重ねて悟った。だからその後は、万葉に戻った。
厳しさを伴ふときはよろづはの生きる厳しさ伴ふも それが緩みた間には風の流れの歌へ傾く
反歌
国上では涼しくなりて風邪をひき寒さに慣れて元へと戻る
九月二十六日(木)
解良家横巻は七首で、いづれも万葉調だ。阿部家横巻は百八十首あり、歌仲間調とでも呼べるものだ。阿部家との友情が溢れてゐる。散文に対し、定型化は一つ美しくなる。小生と同じ思想がある。
布留散東と久賀美は優れた歌選び 解良横巻もまた優れ 阿部横巻は歌の友互ひに作る楽しさがあり
反歌
音の数を合はせることは美しさ一つ加へる尊さがあり
九月二十八日(土)
木村家横巻は、良寛和尚晩年である。読み始めて、頓悟と漸悟のどちらでも、死ぬときまでの累計なのだと感じた。つまり悟ってもその後が悪ければ、死ぬときに悟らなかったほうに分類される。
良寛和尚が悟ったことは間違ひない。しかしその後の死ぬまでも大切だ。良寛和尚が悟った後は、駄目になったとは考へてゐない。しかし、寺組織を抜けたために、老齢の過ごし方にうつ病の気配がでてきた。
とはいへ、死後に悟った側であることは確実である。更に云へば、悟った悟らないと気にすること自体が、悟ってゐないことだ。良寛和尚の、時の流れに任せる生き方に、悟った悟らないを気にする筈は無い。
木村家横巻の特長は、(一)定型化の美しさ、(二)書の美しさ。この二つの裏で意味することは、中味の美しさに欠ける。老いのためか。他宗に寛大なのも、悟ったのではなく老いが原因ではないか。この言葉は、良寛和尚が悟らなかったのではない。他宗に寛大なのは、老いが原因だとしただけだ。
この考へが覆ったのは、三条地震だ。膨大な犠牲者を出した。坐禅を毎日行ふ良寛和尚は良いが、坐禅をしない犠牲者たちを、どう救ふのか。ここに阿弥陀仏が歌に詠まれる理由がある。決して、木村家に感謝して阿弥陀仏を詠んだのではなかった。
布留散東と久賀美横巻比べれば 良寛和尚歳取るの変はる姿が手にとる如し
反旋頭歌
寺の中歳取る僧も働き場在り 寺の外歳取る僧は生きるに辛し
九月二十九日(日)
「はちすの露 本篇」は貞心尼が選定しただけあって、美しい歌が並ぶ。西行の墓に詣でて詠んだ
手折り来し花の色香は薄くともあはれみ給へ心ばかりは
は訳注に「法師への尊崇の気持ちは変わらず」とあるが「法師への同類の念は変はらず」のほうがよくないか。西行と良寛和尚の生涯は、重なる部分が多い。だから同類の気持ちはあっても、尊崇はしてゐないのではないか。これには小生が、西行の歌を好きではない事情がある。今回西行の歌を幾つか読んだところ、芭蕉が引用した
とふ人も思ひ絶えたる山里のさびしさなくば住み憂からまし(嵯峨日記)
山里にこはまた誰を呼子鳥ひとり住まむと思ひしものを(嵯峨日記)
年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山(野ざらし紀行)
象潟の桜は波に埋れて花の上漕ぐ海士の釣り舟(奥の細道)
は、どれも良寛和尚の歌と似る。どうも
ねがはくば花の下にて春死なんそのきさらぎの もち月のころ
がよくなかった。
ねがはくば春のきさらぎ花の下もち月のころ静かに死なん
なら悪くはない。老齢のためか。或いは新古今に選ばれた歌が佳くないのかも知れない。西行の歌を、次に調べることにした。その機会を与へてくれた「はちすの露」に感謝。
良寛和尚「長うた」の詞書がある
風まぜに 雪は降りきぬ 雪まぜに 風は吹ききぬ 埋み火に 足さし伸べて つれづれと 草のいほりに 閉ぢこもり うち數ふれば 如月も 夢の如くに 過ぎにけらしも
は美しい。
貞心尼が初めて良寛和尚を尋ねたときに、貞心尼が詠んだ
冬枯れの すすき尾花を しるべにて 尋(と)めて来にけり これのいほりに
と良寛和尚の返歌
ひさかたの 時雨の雨に そぼちつつ 来ませる君を いかにしてまし
貞心尼のほうが上手だ。これは、返歌のほうが難しいためだ。次に貞心尼が
あしびきの 山の椎柴 折りたきて 君と語らむ 大和言の葉
これに対し
いで言は 尽きせざりけり あしびきの 山の椎柴 折り尽くすとも
これは、二人とも美しい。ずっと後のほうで
僧はただ 万事はいらず 常不軽 菩薩の行ぞ 殊勝なりける
の注釈に「すべての修行が必要なわけではない」とあるが、常不軽菩薩の行が優れることを云ったのであって、この註釈は適切ではない。良寛和尚には、仙桂和尚が禅に参ぜず経を読まず園菜を作ることを賞賛した詩がある。禅や経と同等の修行があることを述べたもので、修行が必要ないとは云ってゐない。このあと、仏法に関係する歌が続く。良寛和尚が僧を辞めたとする書籍がときどきあるが(混同万嘘も同じ)、間違ひなことが分かる。
「はちすの露 唱和篇」も美しい歌が続くが、これで終了としたい。(終)
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