二千四百九十(うた)彦根多賀守山旅行記
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
九月二十一日(土)
妻が金曜から日曜まで親戚訪問の間、母は短期入所した。小生は、土曜の仕事終了後に旅行をしようと計画を幾つか立てるものの、うまく合はなかった。今回はほぼ旅行中止に決まり掛けたあと急遽、滋賀県の小浜町を訪問することにした。我が家の先祖出身地である。
往路のひかり号は、自由席の七割がた埋まった。多くが豊橋で降りた。ひかり号は列車によって停車駅が異なるので、この列車は別名豊橋号かな。
彦根に一泊した。まづ彦根城入口の護国神社。軍用動物の慰霊碑があった。傷痍軍人の平和の碑もあった。決して祖国を恨むことなく平和を願ふ。これらの人たちが居た時代を知る我々の世代から見ると、その後に拝米や売国や社会破壊と変な思想が出て来た。厳密に云へば戦後に成人を迎へた人たちにその傾向が見られたが、主流になったのは昭和の末期だ。それぞれの世代は精一杯生きて来たのだから、後世が歪曲をしてはいけない。
軍犬軍馬軍鳩の碑(クリックで大きな写真) 傷痍軍人平和之碑
井伊直弼が過ごした埋木舎は、異常高温による文化財保護の為、九月末まで閉館。彦根城は工事で中へ入れないので、切符売り場の手前まで行ってから戻り、ホテルに着いた。
彦根には過ぎたるものが二つあり井伊直弼と石田三成
彦根には過ぎたる二つ金(こん)亀(き)山(やま)そして佐和山城と城跡
夕食は大きな商業施設の地下スーパーで買った。ここで買ったお酒は美味しかった。駅階段下にコンビニがあるので、明日の朝食はここで買はう。さう決めて一日目が終了した。
九月二十二日(日)
本日は暗いうちに朝食を食べて、明るくなったら彦根港まで散歩をしよう。さう決めて朝五時半にコンビニへ行くと、カーテンが閉まってゐる。セブンイレブンなのに、開業は六時半だ。名前どほりだと七時になってしまふが。
こんなこともあらうと、昨日ホテル近くの花と食材の小売店で買った鶏肉の缶詰二つが役立った。スーパーへ着く前にこのお店に入った。しかし食材ばかりだ。せっかく入ったのだからお付き合ひで二つ買った。このうち一つと、ホテルのフロントで販売するインゲン油を使はず揚げたものとポテトチップ(どちらも150円込)を買ひ、朝食とした。インゲンはたんぱく質10gなので、缶詰は一つに留めた。栄養はカロリー、たんぱく質、野菜とも十分である。ポテトチップの油分が、やや多いが。
このあと彦根港へ行った。途中で初めて天守閣を観た。前に名古屋へ行ったときに開場前だったので、わずかにお城が見えたのと同じだ。彦根港は、釣りをする人が少しゐた。これが日本海か、大きいなあ、と云ふのは冗談で琵琶湖である。車のナンバーから、名古屋、奈良、岡崎など。滋賀は六割だった。
丘の上に小さくお城(クリックで大きな写真) 彦根港
遊覧船乗り場を観たあと、ホテルへ戻った。途中の道に、大きな通りから外れて雰囲気のよい通りがある。
彦根港までの途中(クリックで大きな写真)
近江鉄道で多賀大社へ行った。この鉄道は昭和四十年代を思ひ出す。滋賀県の湖東の多くを繋ぐ広大な路線である。
滋賀あがた過ぎたるものも住む人を支へるものは二つあり 近淡海(三文字で、ちかつあふみ)と近江鉄道
反歌
鉄の路あがたといちとまちによる下支へにて家路を守る
近江鉄道は、今年四月から上下分離方式になった。県と沿線10市町が施設を支へる。
多賀大社は、参道を含めて宗教感覚が豊かだ。木造の建物が多く、お寺の参拝施設もある。
多賀大社の参道(クリックで大きな写真) お寺が参道に似合ふ 街中と調和
多賀大社は、伊勢神宮のご両親を祭るので、立派である。
伊勢と多賀 街のすべてが千早振る神を祭りて支へるの 人の営み尊きがあり
反歌
伊勢二つ熊野は三つ多賀一つ小さな社数知れずあり
神馬の像、日本の馬にしては大きすぎるが 稲荷参道の鳥居 本殿
神宮寺跡(左後方は別の建物) 参道の延命地蔵
このあと彦根へ戻り、新快速姫路行きに乗った。途中で分割する為に中間の運転席の後ろに立ったので、速度計がよく見えた。時速130kmで走るとすぐ120Kmに下がる。するとまた力走して130Kmに加速する。駅に停車するときは、止まる直前まで回生ブレーキを使ふ。これは快適だ。野洲と守口のどちらで降りるか迷った。
今回の旅行目的は、亡き父が旧制中学のときに学校の課題で調べた「我が家の歴史」に、滋賀県小浜町(現、守山市小浜町)が、江戸時代の末期までお墓の所在地だった。今はそのお寺がない。小浜へ行くことを第一目的としたが、日曜なのでバスが一日三本だ。
代りに同名のお寺へ行くことにした。予め調べた近くだが野洲市内の寺に電話を掛けると、昔からそこにあり廃寺となった寺とは違ふ。野洲と守山のどちらで降りるか迷ったが、合併で同じ市になった守山で降りて、同じ名の別の寺へ行った。ここは浄土真宗で、廃寺のことはご存知なかった。しかし一つ役立つ情報があった。浄土真宗のお寺には、墓が無い。これで、探す寺の宗旨が確定した。東京移転後と同じ浄土宗である。
近くに勝部神社旅所がある。守山市の文化財調査の資料に
旧跡・名所 勝部神社御旅所
旧跡・名所 勝部神社梅田御旅所
とある。帰りは米原まで、各駅停車だったが遅くは無かった。米原は駅前に市役所以外ない。これは貴重である。ところがマンション建設地と云ふ看板がある。貴重な光景が無くなるのは惜しい。国宝、無形文化財、天然記念物、史跡、名勝、国鉄指定周遊地、国際保護鳥に指定してもよいくらいである。米原駅前の空き地と鳥は何の関係があるのか、と訊かれさうだ。
鳥が鳴く東の海と西やまと(日本)境の駅に広がる空き地
「鳥が鳴く」は東の枕詞。
勝部神社御旅所(クリックで大きな写真) 米原湊
帰りのひかり号は、名古屋の次は小田原に停車した。しかし小田原から乗る人は少なかった。(終)
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