二千五百(朗詠のうた)良寛和尚の歌を鑑賞(続編)
甲辰(西洋未開人歴2024)年
九月三十日(月)
前回に続き今回は、歌集や横巻以外の歌である。解説に
良寛は托鉢の途中であっても、人々の求めに応じて気儘に筆を執り、詩歌を書き与えることがよくあったという。
ここで注目するのは、詩歌より書が、人々の求めるものだった。詩歌が雑になったことは否めない。これは歌会も同じで、即興でたくさん作ると雑な歌が多くなる。その中から佳作が出てくる。
幕末期の隆全法師、上杉篤興、(中略)らの手になるものが存在する。明治時代半ばに到ると、良寛の詩歌集がいくつか刊行され、そこにも新たに(以下略)
従って、誤記、改竄、贋作が混入する。
時代別に分けられ、「住居不定時代」は万葉調である。「五合庵時代」前半は、実効が少ない、素朴さも少ない、歌の為の歌、本当に良寛和尚作か、筆が中心。後半は、意味の在る歌(実効のある歌)の連続となる。万葉調である。
「乙子神社草庵時代」は、最初が萬葉調、途中で実効が少なくなる。その様な中で
里べには 笛や鼓の音すなり み山は 松の声ばかりして
は美しい。一方で
草の庵に 立居てみても すべぞなき 海人の刈藻の 思ひ乱れて
は、最後の句が僧侶らしくない。書を求められてその時の心境を素直に書いたか、大地震の後などの時か、贋作か。その二首後の
いまよりは 往き来の人も 絶えぬべし 日に日に雪の 降るばかりして
は美しい。
その夜は法華経を読誦して有縁無縁の童に廻向すとて誘引
知る知らぬ 誘(いざな)ひ給へ 御ほとけの 法(のり)の蓮(はちす)の 花の台(うてな)に
やはり良寛和尚が阿弥陀仏や法華経に言及するのは、大地震や疫病の犠牲者に対してだった。後半は実効ある歌が続く。
なよ竹の 葉したなる身は 等閑に いざ暮らしまし 一(ひと)日(ひ)一日を
この歌は美しいが、次の訳注が最悪である。
僧であるのか俗人であるのか、中途半端な自分にとって、何事もほどほどに、さあこれからの毎日を暮らしていくことにしよう。
「葉したなる」は「中途半端な」とあるが、小生が訳すと
若竹の葉の下に住む身にとり、一日一日をその日暮らししてゐます。
無欲、無終着を表す。僧と一般人の区別が、江戸時代は厳しかった。だから明治時代はまだ「還俗」の語があった。その後、消滅した。
ふたちまりいほの時には言祝ぎて良寛和尚を歌にて偲ぶ
2496まであるので、今回の特集は本来2497だ。しかし三つ飛ばして2500とした。
十月四日(金)
島崎草庵時代に入り
津の国の 難波のことは いさ知らず 草のいほりにけふも暮らしつ
難波は掛詞だが、下二句が生活のことなので、万葉調である。万葉調とは、実効の美、生活の美、素朴の美であることは、これまでにも述べて来た。
1465首目の
我が後を 助け給へと 頼む身は 本の誓ひの 姿なりけり
から六首ほど、阿弥陀仏が登場する。(その中に混ざる
極楽に わが父母は おはすらむ けふ膝もとへ 行くと思へば
は阿弥陀仏とは無縁だと思ふ。訳注は、この歌も阿弥陀仏だとする)
前に、法華経や阿弥陀仏は大地震や疫病の犠牲者の為、と論じたが、今回は良寛和尚が認知症になったか。とは云へ、その前に悟ったことが消える訳ではない。一生の総合計で考へるべきだ。
或いは、この六首は贋作ではないだらうか。
普通の僧は、御布施を頂けば説法をする。良寛和尚は説法をせず、そのうち求めに応じて書を渡した。ここから俗人の印象を持つ人が多い。歌の中身を含めてである。
しかし良寛和尚の思想は、詩に書かれてゐる。
法説かず求めがあれば歌を書く 求める人が多くなり次に偽物多く出回る
反歌
歌を書く多く書くうち美しく無いも混ざるか又は偽物(終)
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「和歌論」(百九十四)
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