二千四百二十一(うた)「上野動物園百年史」第二回
甲辰(西洋未開人歴2024)年
七月十八日(木)
前回「上野動物園百年史」を読んだのは、花園門はどこなのかと、都電「上野動物園前」停留所前は何門なのかを調べるためだった。どちらも解決したので、今回は普通に読んでみた。まづ江戸時代の上野の山の図が載る。寛永寺の境内で、黒門を入った所の(イ)吉祥閣の前と、その背後の(ロ)文殊楼、(ハ)中堂の前が空き、その後ろに御本坊がある。その背後の(ニ)御霊屋二つの周囲にも空きがあるだけで、あとは塔頭がぎっしり並ぶ。
明治十九年に、博物館とその附属下の動物園が、農商務省から宮内省に移管される。その後、関東大震災ののち東京市へ下賜された。
(千川上水については、枠囲み記事についてを二十日(上野動物園その十)へ移動した)
動物園初めは狭く千川の北側のみが 少しづつ拡がり昭和二十五年西園として不忍の池三分の一へ広がる
反歌
寛永寺上野公園全体を狭しとばかり昔は堂宇
反歌
不忍の池は広くてボート池蓮池鵜の池所狭しと
七月十九日(金)
昭和二年に、朝鮮半島の京城(現、ソウル)の動物園からカバのオス一頭を購入した。大正八年にもメスが来て、このときはどちらの動物園も宮内省管轄なので、輸送費1400円のみだった。今回は東京市なので、1頭7000円で購入し、それ以外に輸送費が掛かった。
(ここに鉄道資料があったが、「上野動物園百年史」鉄道資料として独立させた。)
そして、さきのメスとともに後に子を産んだ。これは成功例だが、不幸な例もある。
職員の中からも、応召により(中略)昭和16年7月29日には園長古賀忠道も召集され(中略)寺内寿一は、さきの昭和14年における軍功動物の寄贈のとき以来面識があった。(中略)古賀忠道は、寺内元帥とともにシンガポールにおもむき(中略)マレー地方から、上野動物園に多くの動物が送られてくるという結果を生んでいる。
ところが
シマウマは検疫の関係で到着がおくれ、12月11日に2頭(うち1頭は到着時死亡)が(中略)古賀忠道が帰国するのと同じ船で送られてきたが、同時に、寺内元帥よりの寄贈として、イリエワニ1頭(途中死亡)、ニシキヘビ1頭(途中死亡)、カニクイザルのアルビノ2頭、テナガザル1頭、およびオーストラリアヅル1頭(途中死亡)が12月11日、上野に到着している。
その後
古賀忠道は、すでに南方より帰還し、世田谷の陸軍獣医学校に教官として着任しており、時々獣医学校の生徒を引卒して上野動物園に来援したほか、時折、福田三郎および公園課長井上清などより、相談をうけていた。
------------------ここから(モリカケ・・・カルト裏、三百のニ)--------------------
このあと猛獣処分の話になる。悪いのは戦争に負けたことで、資源と工業力不足が原因だから岸信介の責任だ。
古賀忠道は陸軍獣医学校より呼び出しをうけ、井上清公園課長の部屋で、福田三郎園長代理と落ち合っている。(中略)都長官の命令で猛獣を処分することに決定したから了承してくれとのことでした。(中略)都の首脳部としては、相当議論をされたようでした。私たちは、その決定に対して、ただうなだれるよりほかはありませんでした。これは後に聞いたことでしたが、その頃はまだ国民は、みんな戦争には勝っていると思っていたのです。しかし都長官になる前に、シンガポール、つまり昭南市長をやっていた大達さんには、もうほんとうの戦況がわかっていたのでしょう。
これについて
命令が都長官自身の発意によってなされたことは確実で、戦後巷間伝えられたような「軍の命令」によるものでないことだけは、明瞭である。
戦後になって、何でも軍が悪いことにしてずるく逃げた岸みたいな人間がゐるから要注意だ。
(モリカケ・・・カルト裏、三百)へ
(モリカケ・・・カルト裏、三百一)へ
------------------ここまで(モリカケ・・・カルト裏、三百のニ)--------------------
七月二十日(土)
昭和二十五年に、象など13種18点の移動動物園を行ふことになった。
これらを企画・実施するには、機動力を持つ新聞社の協力を得ることが必要であろうとも考えられた。(中略)かくして、東京都と開催地地方公共団体の共催、朝日新聞社と国鉄の後援(中略)連絡事務局として移動動物園運営委員会が、朝日新聞社の中にもうけられ(以下略)
思へば昔は、昭和四十年に博物館のツタンカーメン展など、催しは新聞社との共催だった。
(ここにあった、鉄道関係の記述は、「上野動物園百年史」鉄道資料へ移動させた。)
移動動物園の総監督者には、元陸軍獣医大佐走尾一三が、とくに請われて、その任にあたることとなった。走尾一三は戦争中、陸軍獣医学校などにあって、獣医界の元締的立場にあった人である。
福田三郎の「実録上野動物園」に戦前の話で
陸軍省兵務局獣医課の走尾中佐から電話があり、古賀少尉が陸軍獣医学校勤務となること、(中略)という連絡があった。
ゾウが松本で倒れる事件があった。
走尾監督の指揮のもとで、全員横になったインディラの腹をさすったり、浣腸を試みるなどの治療と努力によって、翌日には回復することができた。
母に、昭和二十四年にゾウが松本に来たか尋ねたとこめ、昨日は来なかったと云ふ。本日は松本城の広場にゐるゾアの写真とともに訊いたところ、来たことを思ひ出した。倒れた話は、知らなかった。
職員の派遣については、当初は全員が一定期間毎に交替する予定であったが、走尾一三の強い要望にによって、ゾウの主任担当である菅谷吉一郎は全期間を通して交替しないこととなり、走尾一三と菅谷吉一郎の両名が5か月のテント暮らしとなったのである。
小生が小学生の夏休みに、上野動物園のサマースクールに参加した。園長は林さんたったと思ふが、母が前の園長の古賀さんは有名な人だった、と語ったことを今でも覚えてゐる。
古賀さんの園長時代は長き故 または映画で猛獣を処分に古賀さん出てきたか または新聞全国にくまなく移動動物園で
反歌
文京区親と子で観る佳き映画毎月文京公会堂で
「文京区親と子よい映画を観る会」で、猛獣処分を扱った映画も観た。(終)
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