二千四百二十(うた)四季と恋愛以外の歌を作らう
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
七月十八日(木)
古今集と新古今集で、四季の歌と恋愛の歌を無視すると、万葉集と古今集と新古今集に違ひが無くなる、と書いた。これは現代にも当てはまる。四季と恋愛以外の歌を作らう。さうすれば佳い歌が作れる。
とは云へ、散文に組み込まないときはどこで美しさを出すか。だがそれは四季と恋愛の歌も同じだ。今まで現代短歌と呼ばれる人たちは、微妙な心理で出さうとしてきた。これからは、物語性で出すとよいのではないだらうか。
猛暑日が続きその後雨空に戻り六日で梅雨明けとなる
散文とは無関係に、物語性を持たせてみた。
左千夫は、強い感情だとした。強い感情は歌を魅力的にするが、それは一部の歌に当てはまる。全体に当てはめるには、前にも触れた実効性、つまり物語性だ。
七月十九日(金)
四季の歌は、古今集以降、定型化が過ぎたことが欠点だ。恋愛の歌は、仮想恋愛の技比べではないか。歌会で、誰と誰が恋人と、全員を組み合はせる。そして歌を詠む。だから技巧性を追求できた。
技巧性は、実効性即ち物語性とは異なる。なるほど歌会での技巧性は、美しさの一つであった。
七月二十日(土)
あと、四季の歌と恋愛の歌共通の欠点として、歌会などで高く評価されたい気持ちが出る。歌は、自分が佳いと思ふものが良いのであって、高評価されることが良いのではない。そこには邪心が潜む。
四季の歌恋愛の歌邪な心が潜む 子規門下他派他人への批判も同じ
反歌
駄目なのは恋愛の歌四季の歌子規一門の他人批判も
子規一門の、万葉論は立派である。それに対し、子規の写生に限る窮屈な歌論と、当時の他派への批評はよくなかった。尤も貫之への批評は同感である。四季と子規は掛詞。
七月二十一日(日)
歌は、(1)中身と、(2)調べと、(3)技巧が、多彩であるべきだ。しかし歌の原則は守るべきだ。原則とは、(イ)音の数、(ロ)格調、(ハ)書き言葉、だ。このうちの(ハ)について述べると、引用ならば話し言葉でもよい。しかし引用符を使ってはいけない。
中味の多彩で云へば、四季の歌も恋愛の歌も、多彩の一部だから構はない。これらでなくてはいけない、だとか、これらでなくては高い評価がされない、と作るのは駄目である。
あと、子規の一門で恋愛事件を起こした人が多い。仮想恋愛を詠ふのはよいが、現実恋愛を詠ってはいけない。万葉集の歌も、載ったときは既に過去で、つまり仮想だった。
長続く訳を調べの調べある歌は中身と技で整ふ(終)
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