二千三百九十九(朗詠のうた)古今集と新古今集
甲辰(西洋発狂人歴2024)年
七月五日(金)
図書館から借りた本に、西行の歌が幾つも載ってゐた。読んでみて、助詞や助動詞など無駄な表現が多く、嫌な歌だと思った。新古今和歌集は、ほかの人も同じなのだらうか。そこで古今集と新古今集を読み始めた。
すると、悪いのは西行の歌だけだ。よほど小生は、西行と合はないのだらう。「古今集は何とか読めるが、新古今集は駄目だ」とする良寛和尚の感想とは異なり、古今集と新古今集について、特に相違は感じられなかった。その理由を、探したい。

七月六日(土)
古今集で興味深く読めるのは、「巻第七賀の歌」以降だ。春夏秋冬の歌は、月並みが多い。或いは、作らなくてもよい歌が多い。「巻第八離別の歌」を経て、「巻第九羇旅の歌」は安倍仲麻呂、伊勢物語など名作集だ。「巻第十物名」は言葉遊び。ここまで変化があって、退屈しない。
いろいろな歌を作るが文(ふみ)の技先進めるのただ一つ道


七月七日(日)
新古今集を読み終へた。万葉集、古今集、新古今集に違ひは無かった。今回は、古今集、新古今集ともに、巻ごとに「春歌」「羇旅歌」などを気にしながら、十首くらいづつ読んだ。これは四季の歌を、軽く扱ふことでもあった。今回の特集の前までは、四季の歌が中心だった。
西行の歌も、他と比べて悪いことは無かった。しかしそのやうな中で
逢ふまでの命もがなと思ひしは悔しかりけるわが心かな

は出来が悪い。出来の悪い歌ばかりを並べたので、評価が落ちるのだった。読み始める前は、
万葉 >> 古今 > 新古今 >> 西行
を予想しただけに、拍子抜けした。
よろづ葉と 二つの古い今の歌集めるものを比べても 違ひは無しを見つけるのみに

反歌  西行の出来が悪きを探さうと始めてみるも違ひは非ず

七月八日(月)
二回目は、四季の歌と、恋の歌を省いた。四季の歌は貴族どもの堕落、恋の歌は今とは社会習慣が異なる。すると、万葉集、古今集、新古今集に違ひは無い。これが結論になった。
万葉 = 古今 = 新古今
である。
春と夏秋と冬とを詠むときは月並み及び堕ちるを避けよ

西行は、悪くない歌と悪い歌がある。佳い歌があるとすれば山住まひの寂しさだが、それでは出家した意味が無い。歌を作るのはよいが、新古今集に載ってはいけなかった。悪い歌をもう二首挙げると
吉野山やがて出でじと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ
おぼつかな秋はいかなるゆゑのあればすずろにものの悲しかるらむ

念の為に西行だけ四季の歌を読んでみた。なるほど堕落した貴族とは別で、人気の理由がある。しかし出家とは無縁だ。地元など一部の人のみに知られたならよいが、新古今集に載るべきではなかった。(終)

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