千五百九十(歌) 五冊のうちまづ竹村牧男「良寛の詩と道元禅」
辛丑(2021)
八月十二日(木)
今回は竹村牧男「良寛の詩と道元禅」、中村宗一「良寛の偈と正法眼蔵」、北川省一「良寛、法華聖への道」、竹村牧男「良寛さまと読む法華経」、駒井鵞静「良寛字典」の五冊を借りた。優先度の順番に並べたので、まづ最初の書籍から紹介したい。
なを「良寛字典」は良寛に関する事柄を五十音順に解説したものかと思ったら、字体を示すもので書道愛好者向けだった。とは云へ、借りた本は読めば何かの役に立つ。前に書の写真集を借りたが、とても為になった。
良寛と 道元禅は どのやうな 類似相違が あるのかは 興味をそそる 重要課題
(反歌)
良寛は 坐禅の他に 法華経も 造詣深く 訳を探らう
八月十四日(土)
「良寛の詩と道元禅」は昭和五十三年の出版で、竹村さんは三十歳。本文冒頭の
備中玉島の円通寺は、永平古仏道元禅師を宗祖とする曹洞宗の禅寺である。
冒頭から間違ひだ。曹洞宗は道元と瑩山の二人を両祖とする。つまり達磨に始まる禅宗の中間との位置付けだ。宗祖はゐない。
近年は道元重視が行き過ぎた。道元自身に宗祖の意識が無く、宗祖ではない立場の正法眼蔵を重視し過ぎると、弊害がある。
正法眼蔵の難解さと奇抜さから、良寛も志向が大きく変化したことは想像できる。しかしこれは想像に過ぎない。同じく「良寛の詩と道元禅」は竹村さんの根拠のない想像の集大成だ。これが読み始めての感想だった。
まづ役立ったのは、道元は法華経を
極めて高く評価している。そしてその評価のしかたは、ほとんど盲目的、無批判的でさうある。
ここまでは役立たないが、
受け入れの基盤となったものは、少年時代を消費した叡山での学道ではなかったろうか。天台の教判は一口に五時八教といわれるが(以下略)
五時八教とは、釈尊は法華経を最後に説き、一番優れるとするものだ。この説には賛成だが、残念なことに竹村さんの想像に過ぎない。
道元は亡くなる数日前に経行をしながら法華経如来神力品を唱へた。これについて竹村さんは
若於園中。若於林中。若於樹下。若於僧坊。若白衣舎。若在殿堂。若山谷曠野。是中皆応。起塔供養。所以者何。当知是処。即是道場。諸仏於此。得阿耨多羅三藐三菩提。諸仏於此。転於法輪。諸仏於此。而般涅槃。
を引用したあと
道元はみずから上行の菩薩として、『法華経』を付嘱されたという意識にあったのか、あるいは、特別な一箇半箇を念頭に、みずからの死後も、『法華経』の流通を願ったのか。
私は、苦しいときの神頼みならぬ法華経頼みだと思ふ。勿論、道元が願ったのは病気の平癒ではなく、解脱と弟子たちの行く末であらう。道元に宗祖の意識がないから付属されたとは思はないが、唐から持ち帰った禅が後まで伝はることは願ったに違ひない。これは私の想像に過ぎないが。
八月十五日(日)
道元は(中略)宋より還郷を果した直後の頃は、意をもっぱら弘法救生にかけ、(中略)しかしその後の歩みは、決して道元の初志に沿ったものではなかった。(中略)比叡山僧の迫害等により、都の建仁寺から山城深草の閑居へ(三十一歳)、『護国正法義』奏聞の却下による北越への入山(四十四歳)、鎌倉行化の挫折による山居主義の徹底(四十九歳)といった曲折を経て、ついには、山林に一箇半箇を接得することだけを目ざすようになったのであった。
これについて竹村さんは、かなり批判的だ。
もはや徹底的に名利世俗を嫌い、山水を愛する、頑といえば余りにも頑な道元が出来上っていたのであった。そこには、民衆の済度も視野から消え、出家至上主義、宗教的エリート主義だけが残ったのである。
ここまで竹村さんの主張に賛成。しかし
この道元の行持を支えたのは、道元の強烈な正法意識であったろう。
これには反対。とは云へ同じ段落内の
師を経て歴史的存在としての釈尊に至る一筋の糸に(以下略)
これなら賛成。(終)
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