二千三百五十五(うた)飯田利行「定本良寛詩集」その二
甲辰(西洋未開人歴2024)年
六月一日(土)
第三章「行雲流水・花紅柳緑」では
迷と悟とは 相ひ依りて成り、
理と事とは これ一般。
竟日 無字の経、
終夜 不修の禅。
(以下略)

訳は
迷と悟とは縁によって互いに相い依り、相い成り、一つのものの裏はらをなしている。また修行の理(本体)と事(現象)についても同じことだ。
昼はひねもす不立文字の禅籍に読み耽り、夜は夜もすがら修証不二の坐禅(悟りを待たざる禅)に親しむ。

小生はもともと悟りを目指してはいけないとする考へだったが、最近になって、良寛和尚は悟ったとする立場になった。この詩は、元々の小生の考へなので嬉しいが、或いは良寛和尚悟る前の作か。
悟る前迷ふ悟るは裏表 修行を続け悟るあと法華讃など異なる詩へと

反歌  修証不二道元和尚使ふ語は或いは和尚悟るの前か
達磨大師の次から修行僧は同格の観点から、道元和尚とした。修証不二は、修行が即ち悟りとする思想で、小生はこれだが或いは和尚悟る前か。次は
美あれば すなわち醜あり

の詩も同じだ。
撥草参玄 いく歳なるかを知る。
たちまち道人を思ひて 旧社に帰る。

で始まる詩は訳が
私は、多くの障礙(二字で、さわり)をはらいのけて仏法の玄理に参ずべく幾年月を過ごしてきたことか。今にわかに本師のことが偲ばれるので、円通寺の会中(修行場、叢林)にもどってきた。

円通寺を出た後、修行を続けたことが分かる。混同説は間違ひである。

六月二日(日)
第四章「一顒明珠・一鉢隨縁」では
我が生 何処より来り

で始まる詩の後半で、生命について
展転しても すべてこれ空。
空中にこそ我れあり。
いはんや是と非とあらんや。

我れが空ではなく、空中に我れがある、は卓見である。最後の一行とそのあと書き下し文が難解なので省いた二行の訳は
是だの非だのが生命の中に存在するわけがない。
そこには、いささかの分別も思慮も入り込む余地がない。ただ縁のまにまに逆らわずに、ゆったりとしているにすぎない。

覚った内容を云ふと消えてしまうが、その周辺なら大丈夫だとして書いたのが、この部分では。良寛和尚覚りの境地である。
記得す 壮年の時

で始まる詩は、渡航時の話に思へてならない。「貧里」「有識の人」がそれを表す。日本だったら、どの地方、どう云ふ人に会ったか書くと思ふ。
托鉢して この地に来る

で始まる詩では、最後の部分を訳で見ると
八巻の法華経全文を、礼盤の上で拝誦していればよいのだ。

混同の誤りが明らかだ。何もせず、一日ぼうっとする筈が無い。
第五章「時空観照藝林閑語」では
吾が家の 寒山詩、
経巻を談ずるに勝る。
書して屏風の上に於き、
時々 読むこと一徧す。

寒山は僧だが、僧ではないとの主張が極めて僅かにある。寒山詩のなかにさう云ふ詩があり、しかし誰が書いたか不明で、小生は旅人が便乗して書いたのだらうと推定した。利行さんの(註)では、寒山は
中唐の僧。天台山国清寺豊干の弟子。拾得と共に文殊・普賢の生れ代りと称される。

とある。「経巻を談ずるに勝る」は、仏法上まったく問題はない。
寒山詩良寛和尚の詩に似るか 詩を談ずるはお経より勝ると云ふは正しくもある

反歌  三聖と呼ばれる豊干弟子たちと良寛和尚似たところあり
似たところとは、組織からはみ出した事が昔の答だった。今は、四人とも覚った。(終)

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