二千三百三十六(朗詠のうた)を試した
甲辰(西洋未開人歴2024)年
五月七日(火)
(朗詠のうた)九つ分を試した。九つ目は、最初の歌(短歌)は朗詠の歌、二つ目の歌(長歌)も朗詠の歌で作り始めたが、三句から先は、モール、イオン銀行、店外機、ミニストップ、操作と、片仮名語と漢語が続出し、朗詠の歌を諦めた。表題を(朗詠のうた、普通の歌)に変更した。
(朗詠のうた)を作ってみた感想は、(和語優勢のうた)と同じ感覚だった。パソコン日記で初めて同じ感覚が崩れた。(朗詠のうた)はかろうじて合格だが、とうてい(和語優勢のうた)ではない。そして午前中に九つの用事を濟ませたは(朗詠のうた)に不適合だが、(和語優勢のうた)でもない。ここで(朗詠のうた)と(和語優勢のうた)が、再びほぼ同じ意味になった。
社会用語や専門用語を使ふと、和語優勢では無くなってしまふ。明治中期以降に、和語のみの歌が廃れて行った理由はここにある。そして漢語やカタカナ語を使ふと、朗詠の美しさが無くなる。そのため破調が生じた。これが今回(朗詠のうた)を試した結論となった。
ゆったりと歌を詠むとき 字余りと唐の言葉と片仮名は調べに悪く働くが 今は世の中詠むときに 唐の言葉と片仮名を使はざること難しくなる
反歌
片仮名と唐の言葉は良いとして字余り字足らずこれら醜し
五月十四日(火)
(朗詠のうた)は(和語の歌)を合併した。ここが(和語優勢のうた)との違ひで、(和語優勢のうた)と(和語の歌)は区別が煩雑だ。例へば(和語優勢のうた)のつもりだったが(和語のうた)だった、など頻繁に起きた。
(普通のうた)とは統一できなかったが、社会用語や専門用語で特殊な歌が(普通のうた)で、従来より範囲が狭くなった。特殊な歌が(普通のうた)とは変だが、世の中が複雑になった。
世の中が難しくなり複雑な歌を普通の歌と呼ぶ 特殊な歌を普通の歌に
反歌
世の中が難しくなりだが歌に話し言葉と字余りするな
五月十七日(金)
左千夫と赤彦が(朗詠のうた)、つまりゆっくり読んだときの調べを重視したことをこれまで指摘してきたが、茂吉はどうだらうか。洋行のときから、片仮名や漢語が多くなった。しかし帰国後は、完全ではないが元に戻った。歌により、和語のみのものもあれば、漢語や片仮名が入るものもある。云はば和語優勢、つまり(朗詠のうた)であった。
今回茂吉の「赤光」の初版と改訂版を読み、初版では左千夫の急死を惜しんだことを前面に出したかったのだと感じた。今までは、新しいほうが完成度が高いから、完成度の高い順に並べたと思った。
牧水と 左千夫赤彦茂吉らで ゆっくり読むの調べにて歌を作るは消えて滅びる
反歌
徳川の時より続く作り方時には作れすべて歌びと
小生が(和語の歌)を作るのは、これが理由だ。今は(朗詠のうた)に統合した。(終)
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