二千三百二十七(朗詠のうた)朗詠の歌を試す
甲辰(西洋未開人歴2024)年
五月三日(金)
破調に書いた、朗詠で歌作りを試してみた。
引きて読む明治の半ば忘れられ 牧水左千夫云ふ者は極めて僅か 云はざれど守るは子規と赤彦がゐる

反歌  引き詠みて歌を作るが正しきの在り方にして今日より試す
長歌と反歌を試した感想は
引きて詠む新たは歌の世に出会ふ よろづ葉及びそののちの歌びとたちがかつて住む世に

反歌  ゆるやかに読むと新たな世が開く仏の悟り似た心地かも
仏の悟りとはとんでもないと思ふ人もゐることでせう。
言ひ過ぎか歌と仏を同じとは 世の役に立つ好き事が巧みになりて楽しむは 仏と同じ心となるか

反歌  仏には生まれ変はるを止めようと願ふ心が大元にある
釈尊が苦行をしたりいろいろな修行をしたのは、厭世観があった。だから輪廻を止めることを目標とする思想が一つにはある。小生は、あれを止観法と観る。すると歌作りと仏に違ひがあるだらうか。

五月四日(土)
これまで(うた)(和語のうた)だったところへ(朗詠のうた)を新たに作ってみて、赤彦を特集したあとに一時流行った(和語優勢のうた)に近い感覚を持った。あと促音は避けるやうになる。これまでも音便は避けてきたので、それほど変化は無いが。
(和語優勢のうた)が消滅したのは、意図したのではなく、無意識の内だった。(うた)が一番作り易く、(和語のうた)は一旦指定した以上頑張らうとする。(和語優勢のうた)は中途半端だった。とはいへ、今回の(朗詠のうた)は、(和語優勢のうた)と似たものになりさうだ。或いは(うた)(和語のうた)を統合したものに発展するかも知れない。
栲(たく)繩(なは)の長く詠む歌伸びるかも 我が意(おもひ)にも分からずに 何を詠むのか文のなか何処へ入れるか それにて変はる

反歌  引きて読む黒船が来るはるか前長く続くの重きやり方
「長く詠む歌伸びるかも」とは、当ホームページで(朗詠のうた)が伸びること。(和語優勢のうた)は四十三回で消滅した。

五月六日(月)
唱歌歌謡曲の歌詞だけを読むと、音楽を付けたときと比べて、ほとんどが劣化し、ごく僅かの歌詞だけは変はらない。歌も同じで普通に読むと、長く読むときと比べて、ほとんどが劣化し、ごく僅かは変はらない。
明治から大正の初めまでは、そのことを一部の人たちは知ってゐたが、その後は忘れられた。
大正の中頃からは 根(ね)蓴(ぬなは)の歌長く読む知る人が ほぼ居なくなり忘れ去られる

反歌   春の日の長く歌読む技さへも忘れ今へと世は歌に連れ
一昨日の「栲繩」と、本日の「根蓴」「春の日の」は、枕詞で「長く」に掛かる。(終)

「和歌論」(百八十二)へ 「和歌論」(百八十四)へ

メニューへ戻る うた(八百六十六)へ うた(八百六十八)へ