二千三百十五(うた)梶原いろは亭鑑賞記(その三)
甲辰(西洋未開人歴2024)年
四月二十三日(火)
梶原いろは亭に、浪曲を聴きに行った。最初の方は女性浪曲師で、まだ年季明け(講談や落語の二枚目昇進に相当)ではないのかな。このあと、浪曲師二人と曲師を含めての鼎談は興味深く聴くことができた。
出し物を直系しか演じてはいけない雰囲気がある。しかし師匠以外に習ったり、血縁(大叔父も浪曲師)など関係がある場合は演じてもよいのではないか。これが本日のトリを務める菊春師の主張で、その理由は演じる人のゐない演目がたくさんある。このままでは埋もれてしまふ。それを心配してのことだった。
鼎談は、客席から質問する人が何人もゐて、その質問は実に的確だ。いろは亭とは云へ、梶原や上中里近辺に住むのではなく、東京中から浪曲好きが集まった。そんな雰囲気だった。観客は9名。
中入り後に、菊春師の出し物は梅ケ谷。新門と梅ヶ谷とも云ふ。講談、落語、浪曲は、本来は同じ種類の芸能だ。ところが戦後、欧米が正しくて日本は遅れてゐるとする偏向に洗脳され、講談と浪曲は、時代遅れの烙印を押された。落語は滑稽話を前面に出し、変質した。
本日の浪曲二席を聴き、浪曲と講談が日本の芸能に合ふ、と改めて思った。
講談と浪曲こそが 秋津洲大和の国に 千早振る神の御代よりよく似合ふ 今こそ興せ二つの芸能

反歌  講談と浪曲にあるもののふを米軍嫌ひ排除をしたか
反歌  直接の排除より利く若者を欧米かぶれ文化断絶

四月二十四日(水)
昔からの演目を、現代に合はせることは必要だ。女性浪曲師の演じた「不破数右衛門の芝居見物」は、数右衛門が上野介を演じる役者を拳骨で殴るのではなく、その手前で堀部弥兵衛が止めることにして野蛮を出さない工夫がよい。
菊春師は、中入り前の鼎談では普通の声なのに、浪曲を唸るときは独特の声になるから不思議だ。昔は、山手声、下町声があった。下町は大きな声で物を売るので、ガラガラ声になった。小生は二十年近く前に、今はマイクがあり独特の声にしなくても遠くまで通ると主張したことがあったが、ガラガラ声とは異なるやうだ。
菊春師に敬意を表して、小生のホームページで浪曲の特集に、通し番号を付けた。新しい通し番号は二年七ヶ月ぶりになった。浪曲(一)に始まり、この頁が浪曲(二十七)。通し番号一覧。併せて「浪曲 その一」に平成二十一年、「浪曲 その三」に平成二十二年を、先頭の日付けの前に追加した。因みに「浪曲 その六」から後方は年が最初から入ってゐて、書式の変更を懐かしく思った。
小生は、浪曲師の敬称に「師」を用ゐる。講釈師は「先生」、落語家は「師匠」。菊春師は、国友忠には「先生」、その他の先輩方には「師匠」を付けて言及された。あと小生は、浪曲師に限らず芸名を書くときは下の名だけを用ゐる。寄席によっては、めくり札に下の名しか書かないのと同じ発想である。
秋津洲戦に負けて欧米にかぶれる者が多くなり 単純唯物欧米の真似が過ぎては亡国の危機

反歌  秋津洲心の乱れ治すには浪曲及び講談聴かう(終)
(4.26追記)文芸者も、下の名だけを使ふ。漱石、左千夫、茂吉など。小生の筆名多朗も、下の名だけで太郎だと混乱するだらうと思ってのことだった。

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