二千二百六十六(和語のうた)地元の話題(国道に近い側の家、浮間、赤07)
甲辰(西洋未開人歴2024)年
三月十日(日)
三年ほど前に、国道に面した古い民家が取り壊され、奥行きの長い土地だったので国道側が新築の民家、奥側は後方の道路に面した賃貸駐車場になった。奥側を新築、国道側を駐車場にしたほうが、静かでよいのにと思った。
今の住宅は防音が優れるのだらう。また、国道とは云へ二車線だから、小さな県道、普通の市道の規模だ。国道17号は、新大宮バイパスが六車線、中山道は二車線だ。
最近その国道反対側で、元は一軒だったところを分割し、二軒の建て売りを建築中だ。国道側と奥側で、奥側は旗竿地だ。旗竿地とは云へ、駐車場として使用する。本来は奥側のほうが静かで住みやすいと思ふが、国道側のほうが値段が高い。これも、今は防音が優れるためか。
かつて大型トラックの黒煙で、大きな道路からは離れたほうがよかった。今は規制が厳しくなり、黒煙を噴き上げるトラックは無くなった。あと、重量超過のトラックが走ると家が揺れたが、今は規制で無くなった。それらも影響する。

三月十一日(月)
本日は仕事で浮間へ行った。かつて浮間は荒川の左岸で、埼玉県北足立郡横曽根村(現、川口市の一部)だった。河道を変更したため右岸になり、東京府北豊島郡岩淵町(現、北区の一部)に編入された。だから旧見沼代用水西縁の元流域で、「地元の話題」の範囲内だ。
もう一つ浦和と関係を見つけた。浦和元リーダーが昨年三月まで、このマンションにときどき勤務した。四月からは常勤管理者が勤務を始めたので、代務者は勤務しなくなった。帰宅後に調べると昨年四月の地域会で顔を合はせたので、辞められたのはそれ以降だ。名前を忘れてしまったが、Sさんだと分った。
埼京線の浮間舟渡駅から歩いた。途中に浮間下水処理場があり往路は北側の道、帰路は南側の道を歩いた。場所は工場が少し、倉庫と廃棄物処理施設がたくさんあり、おそらくプラザ合意以前は工場ばかりだったのだらう。
南側の道は、壁に大雨時の雨水滲透と、川に放流時の渦巻き構造の展示があり、ボタンを押すと水が実際に流れる。帰りは浮間公園に寄らうと思ったが、予定を変更して展示を楽しんだ。
大雨の時にそのまま外へ出る ごみや油の塊を渦巻きにより取り除き 川を汚すを防ぐの手立て

反歌  降り始め汚き水を溜める池水が土へと浸みる仕組みも

三月十二日(火)
かつて蕨操車場(現、法華田)と赤羽駅東口を結ぶ路線バス赤07があった。この路線は浮間を通らなかったただらうか。地図を見ると、都道447号(17号の舟渡交差点を左折し浮間公園前を経由して北赤羽駅まで)と、浮間銀座とその先(国道17号の二軒家を左折し新河岸橋を渡り北赤羽駅少し手前で合流)が、バスの通りさうな道路だ。おそらくどちらかを走ったのだらう。
国際興業のホームページを見て驚いた。都道447号は、国道17号から浮間公園前(停留所名は、浮間舟渡駅)までしか路線バスが無い。浮間公園から東側は深夜バスだけで、しかも遠回りするから都道447号と浮間銀座のそれぞれ一部を掛け持つ。
かつての蕨操車場(現、法華田)と赤羽駅東口を結ぶバスは、舟渡交差点(停留所名は、舟渡町)から五つ先の志村坂下を左折し、今の環状八号(以前は普通の道路だった)を赤羽へと向かった。東北本線のガードを潜り、荒川大橋のバス停もあった。
つまり地名で云ふと、浮間ではなく、その先の小豆沢を走った。またバス路線は、昭和五十年に蕨操車場廃止により、蕨駅西口発になった。そして昭和六十年に廃止された。
北豊島中を荒川北足立分かれた陸(おか)に 渡しから戸田橋掛かり繋がりて 乗り合ひも出来そののちに車が増えて乗り合ひ消える

反歌  乗り合ひは蕨赤羽もう一つ浦和池袋戸田橋越える
その後、埼京線が出来た為、二つの路線をそれぞれ分割した路線も廃止された。 (終)

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