二千二百十一(和語のうた)七日に借りた三冊の本
新春前癸卯(西洋未開人歴2024)年
一月十四日(日)
七日に借りた三冊のうち和歌史は二冊で、そのうちの一冊は一人が全時代を著述したもので、人別になってゐる。額田王、人麻呂、憶良、家持を読んだところで、もう一冊を先に読まうと思った。
もう一冊は、十人が時代別の共著で、万葉まで読み息切れした。そのあと「空海の風景 上巻」は頁読みから転読で終了した。この本は下巻といっしょに申し込んだものの、貸出中で今頃に来た。遼太郎に不信感を持った後だった。
---------------------------ここから「和歌論」(百五十八)-------------------------------
十人共著の本は、昭和六十年和泉書院の「和歌史-万葉から現代短歌まで-」で最後の三章が「復古から新風へ」「明星とアララギ」「現代短歌」。これらは読み始めて楽しかった。その勢ひで先頭から読み直して「和歌から短歌へ」「和歌の成立」「天平万葉の流れ」「三代集の世界」「新風への胎動」まで読み、息切れした。次の「新古今の時代」は、西行と実朝を読むに留めた。
これだけだと、残りを随分読まなかったみたいだが、残りは「玉葉・風雅から幽斎へ」「堂上と地下」だけで、その次は「復古から新風へ」に続く。
秋津洲大和の歌は よろづ葉の大昔から流れあり 途切れず今に続くとも 澱むときあり濁るときあり

反歌  濁る歌世が朝霧に乱れるは戦に敗れ後の今かも

一月十五日(月)
昨日の「和歌史-万葉から現代短歌まで-」の「復古から新風へ」は荷田在(あり)満(まろ)が
新古今主義をとり「わざ」の重視を説いたのに対し、宗武・真淵は万葉集の尊重を主張した。またさらに、宗武が朱子学的立場に立って勧善懲悪の効用を和歌に認め「ことわり」を第一であるとしたのに対し、真淵は古学的な立場から「情のまこと」を重んじるよう説いたのであった。これが和歌史上「国歌八論論争」と呼ばれているもので(以下略)

小生は歌そのものに興味があり、歌論にはない。小生が書く「最新の歌論」は、歌を作るときにどう裏付けて作るかを述べただけだ。この章の後方では
これらの中央歌壇の趨勢とは無関係に個性的な歌人たちが幕末に近づくにつれて輩出した。

として、良寛、元義、言道、曙覧を挙げる。このうち
同時代の人々からはあまり顧られなかったのに、近代に入ってから正岡子規や斎藤茂吉に推奨されて有名になった良寛や平賀元義などの例もある。

とする。次の章「明星とアララギ」では、明星とアララギのほかにも多くの歌誌が現れたことを紹介し
牧水・夕暮時代として自然主義の影響による歌壇の(以下略)

がある。「アララギの内部論争」の節では
明治四十四年一月から大正二年三月までの誌上できわめて痛烈かつ真摯に展開された。

そして
大正元年(一九一二)十一月『アララギ』に発表された「ほろびの光」五首は、すでに茂吉も「翁の大力量は、寧ろ翁の作物と相対立して居るものの観があつた若手の作物を追越して既にかくの如き歌を作り遂げた」と言及しているように、内部論争がもたらした左千夫畢生の傑作であるといえよう。


一月十六日(火)
一人が全時代を著した書籍を再度読み直したが、やはり転読になってしまふ。転読とは、経本をパラパラと流して一巻を読んだことにするやり方だ。額田王に始まり香川景樹まで。著者の文章が、小生には合はない。そして宗武がゐないことで判るやうに、今集と新古今集に偏ったことも原因だった。
著者は某大学人文社会系研究科教授で、専攻は和歌文学と中世文学。それでこの程度の文章と内容なのかと思った。
書(ふみ)を読み良いか悪いか中身にて肩書きや名で決めてはいけない
(終)

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