二千二百七(和語のうた)最新の歌論「定型への優先度」
新春前癸卯(西洋未開人歴2024)年
一月十一日(木)
歌を詠むときに、定型に対する優先度が人によって異なる。小生は、優先度が極めて高い。だから、「あいうお」を含む句は一字多くても破調にならない決まりでさへ、一字多くはしたくない。とは云へ一字多くすると、表現力が広くなる。だから用ゐることもある。
小生は、西洋式の詩は作らないが、定型または定型に近い詩なら鑑賞することがある。しかし不定形だと、美しさを感じない。ここでも、小生は定型への優先度が極めて高い。
小生とアララギ派との一番の違ひは、破調を許すかどうかだ。破調の歌は、それだけで醜く感じてしまふ。

一月十二日(金)
破調ではない歌を作る人でも、定型に対する優先度が高いとは限らない。サッカー競技を考へると判りやすい。手を使はず行動することが好きだ、或いは得意だ、と云ふ人は少ないが居るだらう。しかしサッカーをするほとんどの人は、規則だから従ふだけだ。
歌も同じで、短歌は五七五七七だと昔からの決まりだから従ふ人がほとんどだ。子規もその一人で、写生論に熱心だったが、定型が好きな訳ではないだらう。だから破調を許すことになった。
牧水は定型の優先度が高いし、吟詠したときの心地好さも重視する。小生は、吟詠での心地好さを考慮しないが、小生に最も近いのは牧水だ。
音の数守り吟(うた)ふの調べ佳し 旅の歌びと牧水は 大和の国の近き代に 最も勝れ歌はさすらふ

反歌  天の原富士のふもとに移り住む二人とは無き佳き旅の歌

一月十三日(土)
定型は読んで心地好い。しかしそれだけではなく、音数合はせをする努力が美しい。これには前提があり、内容が役立つ場合だ。内容が役立たなくてよいのなら、字数合はせのため、桜を梅、砂浜を河原に変へればよい。
定型の優先度が高くない人の歌は、定型化されても美しくない理由が、やっと分った。話し言葉の歌も同じだ。話し方で字数を変へられる。
音の数合ふ歌なれど美しさ欠ける歌あり その訳を探し考へやっと答へが

反歌  役に立つ歌の字合はせ美しく役立たぬ歌美しさなし(終)

追記一月十四日(日)
三島市内の文学碑を見るうちに思った。子規が破調に甘かったのは、俳諧が原因ではないか。俳諧と歌の両方に関はり、そのことは賞讃に値する。だが、傾向に混同があったのは失敗だった。
因みに三島文学碑に載る子規の俳諧は、破調ではない。

兼、「和歌論」(百五十六の三)へ 兼、「和歌論」(百五十八)へ

メニューへ戻る うた(七百四十六の二)へ うた(七百四十八)へ