二千百七十二(和語のうた)赤彦全集第四卷
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
十一月二十三日(木)
(以下、ルビの付く字を太字で表した)
佐々木信綱の歌、
幾年を雲井はるかに仰ぎつるそのいただきに今日やのぼらむ
(前略)初めて富士登山をした時の作ださうな。全体想が平凡極まつたもので、(中略)殊に下二句のたるみ加減と云ふ者が話にならない。「その」などは不要であるのみならず、調をたるませる事が甚だしい。(中略)上の句の「雲井はるか」も困つたもので「はるか」などと雲井を形容したのが少しも働かない。

小生は、字数を合はせることを最優先させるから、「その」に理解を示す。しかし赤彦がさう云ふのなら「高きいただき」にしたらどうか。「はるか」が駄目なら「雲井の上に」ならどうか。赤彦の云ふことも尤もではある。
富士の根は見る見る雲にかくろひて十里の裾野只秋の花
「只」とは(中略)「それのみ」の意味であるが、(中略)只秋の花ばかりと云ふので、従つて外に何物をも見ぬといふ事になるが(以下略)

これは、信綱に軍配を上げる。只秋の花ばかりが印象に残ったのであって、見えなかったのではない。
此の間松本へ行つてみづほのやを訪れた。挨拶も碌々済まぬ中からもう議論が持ち上つて、(中略)僕が与謝野一輩の歌を根底から、浮気で物にならぬとこなせば、みづほのやも根岸派は固まり屋で、単純で、到底あらゆる人生の威興を写すに足らぬと攻撃して居る。

明治三十六年の比牟呂第六号。空穂は三十三年に明星へ参加するが、鉄幹の壮士歌と晶子の恋愛歌に反対で、翌年退会した。それなのに、なぜか与謝野一輩の肩を持つ。
夕方車を連ねて浅間に出掛けて、温泉の二階で酒を傾けながら、とうとう夜の十一時迄(以下略)

空穂の家は和田村なので、松本から西南だ。浅間温泉は市街の北東なので、合はせて11Km離れる。それよりそのときあった「明星」の晶子の歌に
如何に馬鹿にすると云つても程がある。こんな曖昧女が、客を呼び入れでもするやうな文句を竝べられて、誰が嫌味を感じない者があらう。(中略)大抵はこの卑猥なる下劣なる(以下略)

これは同感。
田舎者は真面目で正直で根気強い。(中略)昔から天下の大事は多く田舎者の手によつて処理されてゐる。

として頼朝、信長、秀吉、家康、幕末の薩長を挙げ
正岡先生は「四国の猿の子孫ぞ我は」と歌つて居られる。吾党の同人が都じみた薄つぺらな世間気を出す時、根岸派の文学は総崩れであると信じる。我々「比牟呂」同人は悉く田舎者である。

これは「比牟呂」第一号に執筆した。なるほど馬酔木だけではなく、比牟呂も根岸派だった。小生がこの記事に注目したのは、今は日本中が都会派になってしまった。日本の将来が心配だ。

十一月二十四日(金)
月並派の停滞は今更の事ではない。その他の各派が近来多少の推移をなし(中略)鉄幹、晶子相竝んで萬葉の研究をはじめたなどは、(中略)兎に角悪しき傾向とは云へぬ。
(中略)
子規先生歿後今年で七年になる。此の間に根岸派も随分変遷をした。(中略)雑誌「馬酔木」が廃刊して「アカネ」が生れた。「アララギ」が生れた。小なれども「比牟呂」が生れた。

旧派の停滞と、与謝野夫婦が萬葉の研究を始めたことと、根岸派の三雑誌。決して「アカネ」「アララギ」は敵対関係ではなかった。いづれも興味深い。
鉄幹が古来の典型から離れて一種のロマンチシズムを唱へたのに対して、群衆は甚だ容易な歓呼の声を挙げた。夫れに対して子規は、(中略)自然主義的の客観描写から革新の道を拓いた。(中略)その下に集るものは人数が甚だ少なかつた。此の二つの傾向が二十年許りの間に様々な変遷を経て、(中略)十数年前に比すればズツト共通の点が多くなつてゐる(以下略)

固定した二派と考へがちだが、共通が多くなつたことは貴重な情報である。
佐佐木信綱氏は大隈言道を以て近世歌壇の第一人者とする。(括弧内略)予は言道を以て宗武、良寛、元義等に比し逈かに歌品の凡下なるものとする。

小生は、良寛の特集をよく組む。これは良寛の思想に興味があるためで、歌は漢詩と並びその資料として尊重してきた。それに比し、赤彦は良寛の歌自体を尊重する。小生は万葉と古今の中間、赤彦(を始め子規一門)は万葉なのだと、つくづく思ふ。

十一月二十五日(土)
幕末から明治の歌人であり国学者の小谷古䕃について赤彦が論じる。この内容は最新の歌論で取り上げたいので、ここでは触れない。先へ行き
よく歌をなさる方が直情径行、今頭に動いて居る主観を夫の儘直に外に吐き出せば宣いぢやないか、(中略)まだ私は到達した事がありません。(中略)譬へて申しますれば、越後の僧良寛であります。良寛の歌などはどれを見てもすらすらと流るる水の如くで非常に心持が好いのであります。例へば
  あき風にひかりかがやくすすきの穂ここのたかやに登りて見れば

同感だが、選歌しないと(歌集のたくさんの歌の中だと)「たかやから見たのか」で済んでしまふ。歌集を読んでは駄目なのだな。
はじめて和歌の革新があつたころ、世間では、それらの歌に新派といふ名を冠らせて之を呼んだ。(中略)新派といふ名が、小生等までを包括することを恐れた。

なるほど子規一門は、新派と呼ばれたくなかったのか。それでは直文や牧水はどうだらうか。小生は、新派ではないと思ふ。
「アララギ」の発行部数は精々二三百であつて、それが大部分は寄贈であるから経費は殆ど同人間で負澹してゐた。或る月の「アララギ」が東京堂で十五六冊売れたといふので茂吉君が雀躍りして喜んで、(中略)雀躍りして喜ぶ時が十五六冊の売上げであるから、その他の月は推量することが出来るのであつて、小生が大正三年初めて東京に住むやうになつた時、(中略)調べて見ると会員数三四十人で、それが皆信州人であるのに驚いた。全国に亙つて会員は殆ど無かつたのであある。

みすず刈る人たちによりアララギは低く歩むを保ち時待つ

そして苦労を認めてくれる人が現れた。
それを岩波書店店主が見兼ねて発売所になつて下さつたので売上げも多くなり、小生等の骨折りがずつと助かつて来たのである。

岩波が岩をも砕く波となりアララギの名は広く轟く
(終)

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