二千百八(うた)諏方神社、祖父母が住んだ坂を探せ、子規の墓、山手貨物トンネルの地上
兼、(モリカケ桜河柳藪黒敗トリー放債カルト、二百六十九の二)
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
九月二十七日(水)
本日は、一日空きだった。西日暮里から西南への坂を上がりお諏方様、祖父母(父の両親)が根津の家を新築のときに一時住んだ家近くの坂へ行き、それだけだと時間が余るから、西日暮里から西北への坂を上がり田端へ出ることを予定した。
田端文士村記念館は、来月近くへ行く用事があるので、今回は寄らない。さう決めて、弁当箱にご飯、肉、野菜を入れた。弁当を持って行く理由は、炊飯器のご飯量が半端だ。だからお昼で食べ切ることにした。インターネットで田端文士村記念館を調べると、十月末まで空調工事で休館だ。
それなら本日の小旅行は中止しよう。しかし弁当を詰めてしまった。そこで出掛けることにした。本日は田端文士村へは行かないのに、なぜ中止するのか。これがアナログ思考が変に見えるところだ。とは云へ、デジタル思考できちんと説明できなくてはいけない。時間が余るから寄るかも知れないし、来月近くへ行ったときに寄る場所がなくなる。
弁当のおかげで、まづお諏方様(諏方神社)へ行った。この呼び名は祖母(父の母)の言ひ方で、他に根津の権現様も同じ呼び方だ。境内に御嶽山や末社もあり、立派なものだ。お札授与所も木造で貫禄がある。隣に明治維新までの別当寺があるのは、初めて知った。


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外に出て少し進むと、右手に富士見坂がある。少し前まで、東京に数ある富士見の中で唯一富士山が見えたが、今は見えなくなった。祖父母が一時住んだ家に面した坂はここだと思ってきたのだが、上から見ると様子が違ふ。もう一つ別の坂があるのかと進むうちに、日暮里駅前の道路に出てしまった。
この道から先へは進まないことに決めて来たのだが、坂が気になるので当初の予定を変更して進んだ。すぐ左に「初音小路」と云ふ屋根のある横丁がある。曲がってみて、掃除をしてゐた老婆に「昭和四十七年まで根津に住み、自転車でそこの道は何回も通ったが、この横丁は昔からありますか」と訊くと「六十年前からあるよ、昭和四十七年ではなつかしいねえ」との事だった。尤も小生は六十七歳だから横丁より古い。
更にずっと進み、日暮里駅前通りに続く二つ目のやや広い道路に出た。ここは左に戻ると谷中墓地内、直進すると上野桜木町の元酒屋のの展示館ではと思ったが、不確実だ。これらには行かず、右折した。左側の店に「ニギリ矢印 家庭用品    日用品 雑貨」の看板が掛かる。どこかなつかしい看板だ。更に先の左側には、古い木造の「酒」と薄く読める店がある。その先の区役所が設置した地図で、先程の「谷中墓地「」上野桜木町の元酒屋」が正しいことが確認できた。五十年前の土地勘がまだ有効だ。下り坂を見つける事が目的なのに、坂をかなり下ってしまった。そこで、下から上り坂を探すことにした。

  

更に下り右折して西日暮里方向へ戻ることにした。防災広場と岡倉天心記念講演を過ぎ、七面坂と谷中銀座に接続する階段を過ぎた。坂及び階段の上側は日暮里駅前通りだ。更に進むと、富士見坂の下側に至った。やはりこの坂が祖父母が一時住んだ所だ。坂を装飾舗装したため、気付かなかった。あと五十年前の記憶より、道幅が狭い。
お諏方様へ再び入り、高台の崖側の階段を降りた。五十年前に来るときは自転車だから、この階段は初めてだ。仮令来たとしても、昔は新幹線が無かったから、二つの独立した鉄橋の下だった。今は長い連続したトンネルになった。西日暮里駅の南東側は初めてだ。飲食店などが並び、なかなか繁盛してゐる。
道灌山通りを越えて、坂を上がり田端へ向かった。上の田端台公園で、午前十一時だがお昼を食べた。食べられる場所で食べないと、適当なところが見つからない。
----------------------ここから歌論百三十六-------------------------------------
富士見陸橋手前を左折し、子規の墓へ行った。墓石はある程度立派で、左右に家族と先祖代々、背後に竹が植ゑてある。お寺自体も立派だ。左千夫の墓やお寺とはかなり違ふ。

  
門の左には子規居士墓の石碑(右側)

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----------------------ここまで歌論百三十六-------------------------------------
出たあと富士見陸橋を渡り、一ヶ月ほど前にインターネットの記事で見た山手貨物線のトンネル地上の社宅群(今は別会社化されたのかも知れない)を見て、上中里駅に至った。奇しくも昨日駒込に行く時に歩いたミヤリサン製薬の前を、再度歩いた。
重要ではないので最後に回したが、西日暮里からお諏方様へ行く途中、右側に西日暮里公園がある。これはまったく記憶がない。説明板を読んで分かった。この辺りは花見で有名なお寺が幾つもあったが、明治七年この場所が旧加賀藩前田家に売却され、神式の墓地になった。昭和四十七年に金沢へ改葬し、翌年に公園となった。小生が浦和へ引っ越した翌年のことだった。
かつて我が生まれ育つの地元でも 五十年経ち来て見ればあちこち変はり 古い家少なくなるも 郊外と一番大きな違ひには 史跡が多くいろいろな流れ受け継ぎ歴史を守る

---------------------ここから兼、(モリカケ桜河柳ジャニーズ藪黒敗トリー放債カルト、二百六十九の二)------------------
反歌  郊外は史跡少なく歴史への断絶を生む敗戦とともに

九月二十八日(火)
敗戦で、日本は精神が断絶した。それが現れたのは、中曽根康弘のプラザ合意、朝日新聞船橋洋一の英語公用語騒ぎ、最近の日本側自衛隊死傷者2500人試算と、LGBT騒ぎ。岸信介と東條英機の敗戦責任は重大だ。
古い木造の「酒」と薄く読める店を下ると、右側に全生庵と云ふお寺がある。中曽根康弘と安倍晋三が坐禅をしたのはこの寺だ。坐禅は性格がよくならなくてはいけない。しかし中曽根と安倍は、不公平で強引な政治を行った。中曽根は革マル松崎と組み、売上税はやりませんと明言したのに消費税を導入した。安倍は、中曽根が革マル松崎と組むときにお先棒を担いだ葛西と親密になり、モリカケ桜河柳藪黒敗トリー放債カルトを起こした。

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---------------------ここまで兼、(モリカケ桜河柳ジャニーズ藪黒敗トリー放債カルト、二百六十九の二)------------------
お諏方様の崖側は、鉄道の音が絶えない。東北本線が複々線(高架と地上)、東北上越北陸新幹線が複線、山手京浜東北線が複々線。十線あるので当然だ。しかし崖から離れるとうるさくは無い。落ち着いた雰囲気なのは、古い建物のためか。(終)

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