二千百九(うた)「近代の歌人2」から「正岡子規」
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
九月二十八日(木)
和歌文学会編「近代の歌人2」から「正岡子規」を読んだ。
旧態依然の歌人を排した(中略)理由は、「言語を前にして趣味を後にし理窟を主として感情を従となす(以下略)

この主張には反対である。旧態依然の歌人は、堕落したから駄目になったのであり、言語や理窟は関係ない。理窟と云ふ語には偏見がある。理性としたらどうか。
子規の歌は、明治三三年(一九〇〇)になって、(中略)完成を示した。それらのなかから数首の歌を挙げてみる。
いたつきの閨のガラス戸影透きて小松の枝に雀飛ぶ見ゆ
冬ごもる病の床のガラス戸の曇りぬぐへば足袋干せる見ゆ(ガラス窓)
(以下略)

写生に微妙なところまで描く。実に見事だが息が詰まる。
写生にて微細なことも描く歌 だが美しさ何処で出す 見事だけでは息詰まるのみ 

反歌  美しい景色を描けば美しく普通の景色どう美しく
この年の夏には与謝野鉄幹に書を送り、これと論争を試みようとともした。

子規と鉄幹の争ひについて、左千夫主戦論とする論を前に読んだことがある。小生は、子規主戦論だと見たが、これが正しかった。 貫之を下手な歌よみ古今集くだらぬ集と言った子規 主戦論者に間違ひがない
反歌  敗戦後文化断絶属国化都合悪きを左千夫のせいに
子規の生涯の最高傑作というべきものは、五月四日に詠んだ次の連作である。
  しひて筆を取りて
佐保神の別れかなしも来ん春にふたゝび逢はんわれならなくに
いちはつの花咲きいでゝ我目には今年ばかりの春行かんとす
(以下略)

今なら擬古と云はれさうだが、子規の時代なら擬古ではない。子規の時代に子規派を擬古と批判する人たちは、実は歌を破壊する人たちだ。
万葉を倣ひ歌詠む擬古には非ず 根岸派を擬古と呼ぶのは歌破壊者か

子規は生前、俳句界では相当の名声を得ることができたが、それに比べると、和歌においては(中略)それほど高い評価をうけることができなかった。

これは意外だった。
俳諧の発句と歌の双方に 論優れども実作が伴はないが子規なりと我が思へども 俳諧の発句優れて歌はまだこれが生前受けた評価に

反歌  俳諧の発句作りは僅かにて俳句と為すは僅かの故か(終)

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