二千百六(うた)鴎外全集から「伊藤左千夫年譜稿」
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
九月二十五日(月)
鴎外全集第二十巻に「伊藤左千夫年譜稿」が載る。当時の人たちにとり、左千夫は文豪であり、鴎外が年譜稿を作る価値があった。この中で最も注目したのが
明治卅八年 四十二歳。
三月十一日駿河沼津に遊ぶ。十四日帰京す。
春頃より親鸞聖人を信仰し、歎異抄を愛読す。趣味と信仰との関係の論あり。歌も亦頗る変ず。
五月「ホトヽギス」に写生文「千本松原」を発表す。
九月修善寺に遊ぶ。

この年はこれだけなので、全文引用した。ここで注目すべきは「歌も亦頗る変ず」だ。小生は、新仏教誌に投稿したときとその直後に、歌が変はると見たが、鴎外はこの年春より歌が変はったと見た。八一が、左千夫の歌が変はったと云ふのも、このことかも知れない。
鴎外は 左千夫の歌が変はるのは明治三十八年と 貴重な意見八一とともに

反歌  水害と子供の死にてその後は歌が変はるとする説もあり
反歌  鴎外の観潮楼の集まりで歌が変はるとする説もあり

九月二十六日(火)
最後の部分は
大正二年 五十歳
(中略)
七月卅日午前二時脳溢血にて昏睡状態に陥り、午後六時逝く。
八月二日亀戸普門院の墓地に埋葬す。
九月十日四男幸三郎生まる。 二十八日夭す。

此年譜稿は専ら古泉千樫君の蒐集せる所の資材に據(よ)りて作る。
大正二年十一月八日                林太郎識す

左千夫の死後三ヶ月後に、千樫の資料に依り鴎外が自ら書いたのであった。鴎外が左千夫を高く評価してゐたことが分かる。

九月二十七日(水)
啄木は、観潮楼の歌会に初めて出席した日の日記で
左千夫は所謂根岸派の歌人で、近頃一種の野趣ある小説をかき出したが、風采はマルデ田舎の村長様みたいで(以下略)

と書いた。この風采が禍して、後年左千夫を悪く書く人が出て来た。特に茂吉の門人の中に、自分の師匠と左千夫を切り離さうとする人がゐる。歴史を捏造してはいけない。
その八ヶ月後の歌会について、啄木は日記に
十時散会、雪が六七分薄く積もつて、しきりに降つてゐた。予は伊藤君の傘に入つて色々小説の話をしながら森川町まで来た。

と記す。後世に、左千夫の写真だけを見て小説のできが悪いなど批判する連中には驚く。
鴎外や啄木たちが同輩と左千夫について思ふのに 後世になり風采で悪く云ふのは駄文書きたち

反歌  文藝は作品により決めるべき外観噂戦後偏向(終)

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