二千百四(うた)越後線電化の理由を探る
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
九月二十三日(土)
越後線の内野と柏崎の間は、電車本数が極めて少ない。それなのに電化されてゐる。その理由を探った。まづ信越本線の代替機能である。特に、貨物列車の一部を越後線経由にすることで、信越本線の増発が可能になる。
今では信じられないが昭和五十(1975)年辺りまでは、旅客の運転本数が貨物より少し多い程度だった。越後線が電化されたのは、昭和五十九(1984)年。この数年前に、貨物の操車場経由の輸送廃止が決まる。
武蔵野操車場が開設されたのが昭和四十九(1974)年、廃止は昭和六十一(1986)年。越後線の電化が計画されたときは、全国に自動車道が展開される前の、まだ貨物全盛時代だった。
信越本線の旅客列車を経由させる機能も考へたことだらう。だが貨物列車激減により、信越本線に余裕ができた。経費を掛けて越後線を高速化する必要はなくなった。
ここまでが、従来考へてきたことだった。

九月二十四日(日)
今度は私鉄の話で、越後交通長岡線は、昭和五十(1975)年に旅客輸送廃止、平成七(1995)年に貨物輸送が廃止された。それまでは信越本線の来迎寺から、西長岡、上与板、越後線の大河津(現、寺泊)を経由して寺泊(海岸の近く)までを運行した。
長岡駅までは、信濃川を超えなくてはならないため、鉄橋を建設する資金がなかった。そのため赤字だったが、田中角栄が社長に就任すると電化し賑はうやうになった。田中角栄が下位当選議員から上位当選議員、更には派閥の長になったのは、このときの成功が大きな原因であらう。
越後線の電化計画の頃は、越後交通長岡線が旅客輸送をした時期だから、信越本線の短絡機能を持つ越後線は電化で成功すると観られたのだらう。これが今回与板へ行った後に考へたことだった。
新潟と内野の間は、宅地化が進み、電化が適切である。内野から先は、電化は無理だったと今なら思ふ。当時は、これほど自家用車が普及するとは予想できなかったし、気動車の性能が向上するとも思はなかった。今後は架線と変電設備を撤去し、ディーゼルエンジンと発電機を積んだ電車で運行するのがよいだらう。
とは云へそれにより経費を節約しても、増発はされない。旅客数を増やすには、まづ良寛を売り出し、次に線名を良寛の里線とするのがよい。新潟県の人は、良寛なら売り出す必要が無いと思ってゐることだらう。しかし他の都道府県は違ふ。
先日も書いたが、小生は鶴見に住んだときに、総持寺の日曜参禅会(今は廃止)に参加した。しかし良寛が曹洞宗の僧だとは、数年前に寺泊へ行くまで知らなかった。まづ良寛を売り出し、次に線名を変へるとよい。逆だと効果が薄い。内野と吉田間の増発社会実験は、順番を間違へた。
与板にて長岡線の線路跡見て考へた 越後線電化理由と永続計画

反歌  良寛の人気に掛かる新潟と日本海側各地興廃(終)

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