二千百十一(うた)総ての人が救はれる「天才の良寛」
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
九月二十九日(金)
天才の良寛で、すべての人が納得できる良寛像に統一できることを述べた。しかしそれで、総ての人が救はれる訳ではない。前回は、天才の良寛だから(1)心優しい、(2)真の僧侶、のどちらを期待する人にも答へることが出来る、とした。
しかし「(1)心優しい」は社会を脱落した良寛、社会失格の良寛、を期待してのことではないか。だとすれば「天才の良寛」では駄目だが、実は解決する方法がある。「天才」とは、自分で基準を作れる人、と定義することだ。
名主の跡取りが、立派な名主になった。これは世間の規準だ。曹洞宗で出家し、高僧になった。これも世間の規準だ。しかし良寛は、自分の規準で曹洞宗を抜けて、何年か後に貧乏僧として郷里に戻って来た。
これだけでも、自分の規準でやってきたのだから成功者だが、後に書の良寛、漢詩の良寛、和歌の良寛、子供たちと手毬をする良寛として親しまれた。この時点で、良寛の規準と世間の規準が一致した。
ここで注意することは、独自の規準と世間の規準が一致しようとしまいと、独自の基準を持つ人は天才だ。これなら、すべての良寛愛好者は天才だ。しかし、世間一般の人は違ふ。普通の人は、世間の規準の中であくせくとする。

九月三十日(土)
今回の特集を組むきっかけは、半月ほど前に読んだ記事だった。或るユーチューバー(医師、弁護士、公認会計士に合格)について、脳科学者の茂木健一郎さんが、秀才ではあっても天才ではないとマスコミを批判した。まづ
この方個人には温かい応援する気持ちしかないですが、単なる資格試験合格を天才とか言うメディアの軽薄さには心底あきれるし、大袈裟にいえば国益を損すると思います

と綴った。これについてスポニチのホームページに
茂木氏は天才とは「常に文脈を超えていくもの」とし「これまでの秩序を壊す危険性がある。危険なものです」と語り、「試験の点数を一生懸命高くしようとしている人(中略)は、それがどんなに難関であっても、そういう方々は社会を乱す可能性はない」として、それは天才ではなく秀才であるとした。

良寛は、幕府の宗派別本山末寺の仕組みをはみ出した。もし良寛の真似をする僧が続出したらこれまでの秩序は壊れた。良寛の、書、漢詩、和歌は、それまでの権威を壊した。
ここで良寛愛好者が、自分は天才にはなれない、と悲観する必要はない。茂木さんは
「IQが高いからと言って、文脈を超える天才になるとは限らない。IQテストっていうのは時間内にどれだけ正解の決まったパズルを解くかということ。IQテストという文脈の中で成績を挙げるのは天才ではない」と語った。

尤も
よく「どうしたら天才になれますか?」や「子供を天才にするにはどうしたらいいか?」などと聞かれることがあるとし「リスクを伴うことですよ、という覚悟は持ってほしい」とキッパリ。「(前略)天才は危険なものです。秀才は放っておいていいんです。せいぜい高い点数取ったりとか(中略)そういう人は世界の秩序を乱す人じゃない」と「天才」と「秀才」の概念の違いを説明した。
その上で「天才とは全体の範囲を広げていく存在。そういうのがないと成長できないので、日本はリスクはあるんですけど、そういうディスラクティブ(既存の価値基準を打ち砕く)な生き方とか才能とかいう人を育てていく必要があるんじゃないかな」と語っていた。

良寛は 天才秀才凡才と劣才のうちどれなのか 秀才凡才非ざるも 天才劣才二つが残る

反歌  良寛は天秀凡劣その中に人それぞれが好みを選ぶ(終)

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