二千八十一(和語のうた)文明編「斎藤茂吉短歌合評 上」
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
九月一日(金)
前回に続いて今回も、文明の歌論を探る目的で、文明編「斎藤茂吉短歌合評 上」を借りた。「アララギ」誌に昭和三十三年から四十一年まで連載されたものである。
書(ふみ)よみて賢くなれと戦場のわが兄は銭を呉れたまひたり

について初版は「本よみて」「兄(え)」だったと或る論者が述べたあと、文明は
「本よみて」は私も初版の方が親しみが持てると思う。古泉千樫の歌に「本よむきこゆ」とあるのを、私は千樫の創案とばかり思っていたが、或いはここから来たのかも知れない。

「本よむ」が昔は創案とは、時代差を感じる。それよりこの歌は、論評するほどのものではないと思ふ。それを論評するから、重箱の隅をほじくることになる。
「塩原行」の歌について、文明が
アララギをよむと、古くさい言葉や句法が、次から次と出て来て、第一意味がとれない。其の点では私の毎月よんでいた、「アカネ」の歌の方が、はるかに親しみが持てた(以下略)

「アララギ」と「アカネ」の違ひと、文明の歌が近代的なのは昔からなのかと思った。しかし美しさをどこで出すか。古くさい言葉や句法は、一つの方法だが。さて
「ちらりほらり」などという俗語は、今は誰でも使うだろうが、そういう固苦しいアララギの中で、こう思い切った自由な言葉使いに逢著した私は、目を見はった。(中略)この一連は、左千夫の選を経てをる筈であるから、この程度のものの存在はみとめる左千夫の態度というものを考えて見なければなるまい。しかも、そうした左千夫の出来るだけ包容しようとする態度は、周囲から非難もされていたことも思い起こすべきである。

最後の辺りを現代人は逆に思ってゐないだらうか。左千夫は若い人たちを古式で押さへたと現代人は考へるが、包容したため周囲から非難されてゐた。
山峡(やまかひ)のもみぢに深く相こもりほれ果てなむか峡(かひ)のもみぢに

に対し或る評者が
この歌などには左千夫を中心とした一時の根岸派の、形式的な観念的な作風の支配が見られることを感じる。それを「ほれ果てなむか」などといくらか洒々と歌い出しているところに後年の茂吉の芽のようなものがある(以下略)

文明は
「ほれる」という句は単に恋愛の用語に偏曲して用いられたから(中略)三井甲之が、この言葉をとり上げて、アララギの歌風を非難した。それに対して、左千夫先生が(中略)「歎異抄」の「ほれぼれとして」という語をひいて、甲之の一方的な言い方を笑った。(私は左千夫先生の談話の方を深く印象しておるのてせあるが、今「歌人閑語」をよんでみると、中々熱情のこもった議論で、単なる用語論に止まらず、作歌の根本態度にまで及んでる、いい文章である。(以下略)

昭和三十年代は、他の門流を除いては左千夫を悪く云ふ人はゐなかった。
潮)しほ)沫(なわ)のはかなくあらばもろ共にいづべの方にほろびてゆかむ

別の評者は
「潮沫の」は「はかなくあらば」を引出す序と見なすべきだろう。

序詞は二語以上の定義に従へば、枕詞だ。枕詞は万葉時代に固定の定義に従ひ、序と読んだのであらう。小生は文明の説に従ひ、自分で定義したものも枕詞と呼ぶことにして八日を経過した。
かがまりて見つつかなしもしみじみと水湧き居れば砂うごくかな

茂吉自身は「作歌四十年」で
結句、『かも』とせずに『かな』としたのなども、この頃の自分の傾向であつたのであらう。但し、この『かな』は他流の軽い『かな』と違い、『見ゆるかな』の如く、一種のゆらぎを以て重く行つて居る(以下略)


九月二日(金)
「杉の樹の肌(はだへ)に寄れば(以下略)」の合評で、文明が
古泉千樫が斎藤君は根岸派よりも明星派の風が多いと(中略)千樫はいくらか根岸派というものを、かたく考えすぎていたのかも知れない。

このあと「おひろ」と云ふ四十四首の章に入る。此処に載る歌を見て、後半は「おひろ」とは無関係としてなら読める。前半は、醜さが無いものの美しさも無い。だから文明ではない人が
長塚節をして道草を食つて居る」と不満を表明せしめ、また文明先生をして「『おくに』の方が『おひろ』などより好きだ」と言わしめたのではあるまいか。

歌集「赤光」の最大作は「死にたまふ母」だ。文明以外の評者が
茂吉先生も言われている如く、これらの歌、安易道であるかどうかは分からないが、案外作り易かったということは事実であろう。

別の評者は
茂吉が「作家四十年」の中で、「これらの歌は左千夫先生の生前には示さなかつたもので、歌集赤光が出来上がつてから先生の教をうけようとおもつてゐたものであつた。」と記してあるのは、当時の左千夫茂吉の関係を思うとき、私は感慨なしに読過することができない。

文明は、茂吉が安易道と言ったことに関連し
晩年の作者なら、歌の数は三分の一か五分の一になったであろうし、もっと高い所を行かれたであろうが、そうかと言ってこの一連が価値がないということにはならない。左千夫先生がどう批評されたかは、もちろん推測しがたいけれども、恐らく言葉をきわめ絶賛されたであろう。この一連のうちには、左千夫好みの抒情が横溢している。

小生も文明の意見に賛成だ。さて「上の山の停車場に下り(以下略)」の句で、文明は
現在の私は左千夫先生や、この時代の作者はじめ多くの人が考えていたろうと思われる程には、連作というものを重視しない。これは恐らく後年のこの作者もそうであったろう。何より作品が証明しているではないか。

小生が、文明の歌集は途中から物語性が無くなると感じたのは、それが原因かも知れない。今回の書籍で、茂吉は「あらたま」の箱根漫吟が傑作で、欧州留学までは物語性、帰国後は佳い歌が無くなると感じたのも、それが原因かも知れない。
この先の歌々で、歌人仲間でしか通用しない語感が多くなるが、無意味だ。
ひつそりと心なやみて水かくる松葉ぼたんはきのふ植ゑにし

「先師墓前」の題が付き、これで「赤光」が終はる。
歌集「あらたま」に入り、ここでも歌人仲間でしか通用しない芸術論が目に付く。
ものの行(ゆき)とどまらめやも山峡の杉のたいぼくの寒さのひびき

「杉のたいぼくの寒さのひびき」なんて、すごい表現だ。とうてい小生には作れない。悪く云へば、ひねり過ぎか。歌を作ってゐると、自分でもよくこんな表現を書けたと思ふことがある。統計で云ふと対数正規分布で優れたものが現れる。
「あしびきの山こがらしの行く寒さ(以下略)」の「山こがらし」もすごい表現だ。対数正規分布で、稀にしか現れない。文明が
今の学者たちはアシヒキノとやるんだが、昔はみんなアシビキノだった。学者たちの言うのは本当だろうが、そのために歌が良くなったというわけではない。

次の「三宅坂を(以下略)」で感じたが、小生は(1)美しさ、(2)連続性。歌人仲間は(1)表現、(2)題材。
先ほど誉めた「箱根漫吟」に入り
山がはに寒き風ふき大石のむらがれるかげにひとりわが居つ

について或る評者が「作家四十年」から
「山がはに寒き風ふき」の調子も、「万葉調即ち古調行かうと努力して居ることが分かる」

これに対し文明は
「大石のむらがれるかげ」というような景色の受け入れ方は、多分西洋画などからの暗示があるのではないかと思う。作者自ら古調と言って居られるとしても、その内容は決して日本の古いものの見方ではない(以下略)

この主張は変だ。西洋文学から影響を受ければ古調ではないが、西洋画の影響は個々によって異なる。「大石のむらがれるかげ」が影響を受けたとしても古調であることに変はりはなく、そもそも「大石のむらがれるかげ」に西洋画の影響は無いと、小生は見た。
これで「あらたま」が終はり、次の歌集「つゆじも」で異変が起きる。長崎へ行ったことが影響し、佳い歌が無くなる。後半は留学の船旅日記を歌にしたもので、これは当時に日本人に人気が出たことだらう。「遠遊」「遍歴」は欧州での出来事で、これらも同じ。
帰国後の「ともしび」は、歌から美しさが無くなる。「家いでてわれは来しとき渋谷川に卵のからが(以下略)」について、各人がいろいろ合評するが、歌仲間の目と一般の目との違ひを感じた。短歌を作っても、長歌や普通の文も書く人と、短歌だけ作る仲間は、感覚が異なる。
美しい箱根の歌を詠む人が 長崎にては暗き日を 船で西への国へ行く 目新しくてひと時の幸せ過ごし 戻る後焼け跡に立ち暗き日を 或いは西で美しさ忘れそののち 新たな歌へ

反歌  このふみは上の巻にてこののちは下が来るのを楽しみとして(終)

(追記9.03)上巻は、後のほうで美しい歌が復活するので続編を作った。
「良寛の出家、漢詩。赤彦その他の人たちを含む和歌論」(百八十八)へ 兼、「良寛の出家、漢詩。赤彦その他の人たちを含む和歌論」(百九十)へ

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