二千七十九(和語のうた)文明ほか一名「左千夫歌集」
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
八月二十八日(月)
文明の著書を調べる目的で土屋文明・山本英吉選「左千夫歌集」を借りた。読み始めて驚いたことは、明治三十三年から歌が急によくなる。子規の功績か。そしてその先頭は有名な「牛飼が歌詠む時に(以下略)」だ。
この頃は、和語を無理に使ふこともある。例へば
ゑだくみの転職(あまつか)さをしまたくすと八千重荒波わたる君かも

その翌年の明治三十五年は、字余りが幾つか現れる。とは云へ、その後は枕詞や古い表現をときどき使ふ。
よろづはの言葉を使ひ美しさ出す優れ技 歌なかにほかの調べと合はせる力

反歌  よろづはの優れた言葉今の世に生かす技には味はひがある
1980年に発行された「左千夫歌集」の表紙には
『野菊の墓』の作者はまた真摯・豊潤な歌を詠む歌人でもあった。

とある。なるほど1980年は、まだ『野菊の墓』のほうが歌より有名だった。

八月二十九日(火)
明治三十六年の子規一周忌に、旋頭歌を詠む。このころ破調なし。美しい表現を、調味料みたいにとはどき使ふ。三人(みたり)の和語表現もある。明治三十七年も同様。
子規が亡くなって左千夫が古風になったのではなく、子規も古風だった。

八月三十日(水)
この後も引き続き、破調はほとんど無かったが、鴎外の歌会の後に急増する。しかしすぐに元へ戻り少なくなる。明治四十年の
九十九里の磯のたひらはあめ土の四方の寄合に雲たむろせり
秋立てや空の真洞はみどり澄み沖べ原のべ雲とほく曳く
ひさかたの天の八(や)隅に雲しづみ我が居る磯に舟かへり来る
ひんがしの沖つ薄雲入日うけ下辺の朱けに海暮れかへる

は美しい歌が続く。明治四十一年も
白雪をかざしによそふ蓼科の麓のみ湯にのどに籠らむ
天地のなしのまに〱(二文字繰り返し記号)黙(もだ)し居る山も晴れては笑める色あり

など美しい歌が続く。この辺りはアカネに掲載された。アカネの別の号には「赤木格堂が外遊を送る」と題して六首載る。赤木格堂は俳人、歌人で、吉備路文学館のホームページには
35年、子規没後は俳壇、歌壇からいさぎよく身を退いた。以後41年フランス留学

とあるが、実態は違ふやうだ。また文明の著書に、左千夫は海外事情に暗いことが書いてあるが、茂吉、純、格堂と海外に長期滞在した人が多いのだから、左千夫に海外経験が無くても、海外事情に暗いと云ふことは間違ひだ。
このあと阿羅々木の歌へと続くが、心の醜さを詠ふものだ。八一が、晩年の左千夫は歌調が変はったと評したが、この辺りか。さうするうちに明治四十一年は終はる。
明治四十二年になり、鴎外の歌会は悪い歌が多い。その次の阿羅々木は、佳い歌と悪い歌が混在。範囲が広がり、悪い歌が多くなったか。信濃への旅行は、佳い歌が続く。さうかうするうちに明治四十二年は暮れる。

八月三十一日(木)
明治四十三年は、前年五月に七女が庭の池で亡くなりその一周忌に歌を七首作った。八月は水害で、家計が疲弊する。明治四十四年は、歌が変になる。八一の云ふ歌風の変化はこれか。心を詠ったものが多くなるのは、うつ病か。まともな歌もあるが、寂しさを詠んだものだ。
浮気物が続く。戦争が続けば女が余るから、余裕のある男が妾を持つことは人助けでもあり、当時の世相を読む必要がある。
大正二年は、政府を批判する歌が幾つもある。貧乏を嘆く歌もある。そして左千夫は急死する。歌を作り、小説を書き、多くの門人を育てた。その功績は大きい。(終)

「良寛の出家、漢詩。赤彦その他の人たちを含む和歌論」(百八十七)へ 「良寛の出家、漢詩。赤彦その他の人たちを含む和歌論」(百八十九)へ

メニューへ戻る うた(六百十八)へ うた(六百二十)へ