二千七十五(和語のうた)萬葉集私注補巻から歌論
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
八月二十五日(金)
「萬葉集私注十 補巻」は、補正稿がほとんどで、後方に歌論が幾つか載る。歌論のなかの「子規の萬葉観 作者と学者の観点の相違」に
吾々の伝統として受け取つたものの中からその時に適合するものが何かあるかといふと、萬葉だけしかない(中略)。子規には子規の文学観があり、それを実作に移す目標として萬葉がある。萬葉は尊いものだから萬葉を宗として作らなければならないといふのと違ふ。

子規は長歌も作ったし、萬葉への傾斜は文明と異なる。子規、左千夫の時代と、文明の時代と、その中間の赤彦、茂吉の時代がある。
子規の謂ふ「歌読み」は(中略)新聞「日本」の社員であつた阪井久良伎の手で集められたと見える「新自讃歌」の人々、小出、高橋といふ人々から佐佐木信綱、竹柏園門下に至る迄の人々、それらを目標にしてゐる。

旧派の人たちだけで、佐佐木信綱まで含めるとは思はなかった。小生は、信綱はともかく、その孫幸綱の破調歌が嫌ひなので、それが信綱まで波及する。旧民主党野田のときに自民党から引き抜いた与謝野が嫌ひなので、祖母の晶子まで波及するのと同一である。さて
子規の傘下に反歌壇的な、歌壇に容れられない野武士達が集り、また萬葉を取り上げたといふので、所謂萬葉主義者達、自ら萬葉調作者だと標榜してゐた人達が馳せ参じたのだと思ふ。

そして
子規が亡くなつた時残つたのは反歌壇的、萬葉主義的の人であつたと言つても過言ではない。(中略)その中にあつて僅かに文学論の立場から運動を進めたものは伊藤左千夫であります。

さうなつた理由は
左千夫には早くから一つの文学観があり、文章を書き小説を各やうになつた。(中略)長塚節も同じに言へる。小説を書く為に文学の何たるかを忘れず踏み外さなかつたと解釈される。子規の運動の最初に馳せ参じて、萬葉から言へば当時の子規より立ち勝つてゐたかとさへ思へる香取秀真等が脱落して行つたのは当然である。

子規の仲間の多くが脱落するのは、左千夫の性格が原因だみたいな説が今は蔓延るが、文明の説が正しいのだらう。小生は、小説を書かないが、普通の文章は沢山書いて2075になった。その立場から見ると、短歌しか作らない人の歌は好きではない。同じ理由だらう。文学の中の短歌である。
徳川が倒れてからは 世の中が次々変はり大和歌やはり次々変はるのち 堕ちた歌出て止まることなし

反歌  西の洋その真似をせず比べては劣ることなき歌を詠めたか
次は「庶民の歌ごころ」に
労働、或いは労働から受ける苦しみ、さういふものをなにによつてやはらげたか、(中略)恋愛感情をもつてした、かういふふうに見ていいのぢやないだらうかと思ひます。

具体的に
稲つけばかがるあが手をこよひもか殿のわく子がとりてなげかむ

の歌について
米を仕上げるといふ女の労働を歌つてゐる。またその労働の作業に伴つて歌はれた労働歌、(中略)恋愛の感情でやはらげてをります。
(前略)おそらくそれは心の中の希望だけであつて、実際にあつたことではあるまいと思はれますが(以下略)

今回此の歌論に注目したのは、相聞歌はすべて労働歌で、古今など貴族の歌は堕落したもの、と思った。
万葉の相聞の歌序詞や比喩に労働言霊宿る

次は「萬葉集を読みはじめた頃」で
中学四年生であるから、自分でどうといふ考などある筈がない。その頃三井甲之のやつて居た雑誌アカネに萬葉集のことがあつたので、その通りに読みはじめただけであつた。

なるほど子規や左千夫みたいに長歌に行かないのは、この辺に理由がありさうだ。
私はそれから間もなく左千夫先生に就いて、その庇護の下に今日迄るのであるが(以下略)

甲之については
後にはシキシマノミチなどを唱へて短歌とも文学とも縁のない人となり(以下略)

これは昭和三十二年の文章である。次は「柿本人麿」で
萬葉集初期の作品は、個人の生活に根ざすことになつたが、一面には記紀歌謡のもつ、諧調、表現のなだらかさを、必しも備へたものとばかりは胃へなくなつた。(中略)人麿はさうした時代に出現して(以下略)

諧調、表現のなだらかさをも備へた。次は「人麿、特にその影響について」で
時代が遠くなるに従つて、人麿には追従者は全くなくなつて居る。これは一度滅び忘れられた日本の歌が、復興したかにみえる古今集以後の時代は、実は萬葉時代、或は人麿時代とは(中略)本質的には殆ど異質といふべきものであつたからであらうが(以下略)

萬葉を尊重しても、古今を無視しては原理主義だと、小生は主張してきた。もし文明が云ふやうに、古今が萬葉とは異質なら、原理主義ではなくなる。さて、「あつたからであらうが」の後は、どのやうな内容がくるのだらうか。それは
意識的に萬葉模倣をしたと思はれる実朝にしても真淵にしても、良寛にしても、その中から人麿的なものを取り上げるとなると、一二の語法修辞はとにかく、製作動機まで人麿によるとみえるものは極めて乏しい。

その理由として
人麿自体に後世にまでつづくもの、新しい発展の萌芽となり得るものを欠いて居ると見るべきではあるまいか。(中略)旅人、憶良に見られるほのかなる時代への反省さへも、人麿には見ることが出来ない。


八月二十六日(土)
「萬葉集私集の著者として」に、子規が亡くなった後に、香取秀真など万葉主義者が多かった時代に
私はさういう時代の左千夫から教へられた者で、どつちつかず、ふやふやの処で入つたと言へる。吾々の先輩も或時期には、そんな風でゐたと思ふ。さういふ点では文学論を根本に据ゑ、それから萬葉を見、文学としての短歌の在り方を、一番はつきりさせたのは斎藤茂吉で、さういふ点でも斎藤茂吉の文学的意義は、いくら讃美しても讃美しきれない(以下略)

次の話題に入り
民謡は民謡だから面白いのではなく、或る時代の表現を持つものが面白い(中略)。この点赤彦の考へとも違ふ。赤彦はてんから民謡を信じてゐる。萬葉の民謡が後世の民謡に移つてゐるといふ考へはその通りだが、価値から言ふと違ふ。萬葉の民謡は多くはいいものがあるが、中世以後の民謡は他の文学の堕落と同じに堕落したものである(以下略)

次は「子規及びその後継者たちの萬葉観」で前にも書いたが、昭和三十六年になると日本の西洋崇拝が進んだため
子規のは西洋流の物の考へ方があつて、それで萬葉を処理しようとした。左千夫のは、初めに萬葉集に対する近親感をもつてゐて、それを子規によつて導かれた西洋風の文学観で処理しようとしたので、そこにいくらか相違があるわけであります。又、左千夫には、子規程の西洋理解はなかつたといふこともいへるかも知れません。
(終)

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