二千六十ニ(うた)文明「萬葉集入門」を読む
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
八月十日(木)
一九八一年に出版された土屋文明「萬葉集入門」は、第三章人麿までと第四章が名著である。第二章「萬葉集の成立と構成」に
春すぎて夏来(きた)るらし白たへの衣乾したり天の香具山

を引用し
萬葉集の時代は、外来文化の影響、それによる急激な国内変動

があった。
純客観的に自然を見る見方などは、まだ十分発達していないように思われるのであるが、その初期にはもう、こうした自然の見方も存したのである。これは古事記日本書紀の歌謡などとは、大いに趣きを異にしているので、決して素朴などという言葉で、言いあらわせる心境ではなく、十分の理知があって(以下略)

なるほどと思ふ。次の話題に移り、人麿は
萬葉集中第一の作者と考えられ(以下略)

それと関連して、人麿歌集は
人麿の作ばかりではなく、むしろ大部分が、作者の分からない民謡を、人麿作と見なしたもののごとくである。

そして
人麿の歌風は、彼より後の萬葉集作者の、ほとんどすべてに影響している。山部赤人のごときもまたその中の一人である。


八月十一日(金)
第三章「萬葉集における作風の消長」に入り
萬葉集初期の作品は、個人の生活に根ざすことになったが、一面には記紀歌謡のもつ、諧調、表現のなだらかさを、必ずしも備えたものとばかりは言えなくなった。(中略)人麿はそうした時代に出現して、個人の生活に根ざして歌うという、新しい生活態度の上に、その作品に、記紀時代からの伝統であるところの諧調、表現のなだらかさをも与えた、最大の作者であると言うべきであろう。

その度合ひは
萬葉集は人麿において頂点に達し、人麿に終っていると見てもよい。

小生も、万葉集は東歌や人麿など一部を除いては美しくないと感じてゐたが、なるほどと分かった。
人麿後の萬葉集は皆人麿の模倣と見ても過言でないほどである。しかも人麿の域に達する者は一人もなく、模倣者の最大のものと思われる赤人、家持のごときさえ、はるかに劣った作者でしかあり得ない(以下略)


八月十二日(土)
第四章「萬葉集と現代」では
良寛や元義が、(中略)よく萬葉の神髄に達することができたのは、やはり実践からの要求、少なくとも実践を伴う態度であったがためであろう。しかし(中略)良寛の取った萬葉はむしろ古今的であり、元義の萬葉は用語の範囲をあまり出ていないとも言い得るであろう。

古今の善い部分なら、倣ったほうがよい。次に子規の話になり
子規の根本は何かというと(中略)西洋風の文学にするということ(以下略)

これは一理ある。しかし、それならなぜ浅香社と合流しないのか。
「歌よみに与ふる書」の第何回かの中に、歌はどういうふうに作ってもいい、萬葉調でもいい、古今調でもいい、それからそれから我々の調子でもかまわない(以下略)

そのあと
子規は、実際作っているうちに、萬葉集にかなり特別な興味をもつようになったらしい(中略)それに拍車をかけたのは、子規のまわりに集った人々であった(以下略)

具体的には
子規の萬葉を重くみる言説が目につくようになったので、いくらか萬葉集に興味をもって、しかもその当時の歌壇からはあんまり相手にされなかった連中、竹柏園の仲間が多い(以下略)

そして
その中には香取秀真のような人もあり、萬葉集のことは、我々が子規に教えてやった(中略)うそのようでもあるし、うそでないようにも私には思えます。

その結果
萬葉先生たちが歌会へ入ってきたので、俳句の人はつまらなくなり、だんだんと子規の歌会からはなれていく。

俳句系と歌系に分かれた理由が分かるし、歌会には萬葉先生の時代と子規の門人たちの時代があり、子規が万葉に近づき過ぎたのは萬葉先生たちの影響だと判る。
ここで、万葉に近づき過ぎたと書いたのは、文明の考へる子規像から見ての事で、小生は子規が長歌を作ったことはよいことだと思ふ。 文明は万葉集の研究で有名だが、文明の歌は万葉とは大きく異なる。だから子規について、万葉との関係を薄くする傾向にある。
子規は文学については自分の考えは、すでにきまっている。萬葉集から何も教えられるものはない。萬葉集から教えられるのは、言葉づかいの技巧、技巧の自由さ、取材の広範なこと、そういう技術的なことだ、というのでありましょう。

文明の 歌は写生の歌論に依り万葉の影響は受けず万葉解釈に勝れるものの 二つ並走

反歌  子規からは孫門人が万葉の影響受けず万葉学者

八月十三日(日)
子規が亡くなった後は
長塚節は製作の方でも、子規の歌風の最も忠実なる継承者と言っていいのではないかと思いますが、萬葉の取り扱いについても、子規のやり方を忠実に受けついで(以下略)

そして
左千夫も、萬葉集にひかされて、子規の所へきた一人といってよいと思います。

子規の歌論にひかされて、そのため萬葉集に熱中したと思ってゐたのでこれは意外だった。
子規の没後明治三十六年になって、左千夫は萬葉論を書いています。(中略)いくらか子規と違っている点は、左千夫は、萬葉集の本質にふれて議論をしようとしています。例えば、萬葉集の作風を理想派と写実派とに分け(中略)柿本人麿を理想派の代表者とし、それに対して、憶良・家持を写実派の代表として論じています。(中略)これは子規の技巧論だけではなく、萬葉の本質論へ進んでいったためと見てよいと思います。また同時に文学の根本を萬葉に求めようとしたと考えられます。

その根底として
子規のは西洋流の物の考え方があって、それで萬葉を処理しようとした。左千夫のは、初めに萬葉集に対する近親感をもっていて、それを子規によって導かれた西洋風の文学観で処理しようとしたので、そこにいくらか相違があるわけであります。

左千夫は、子規の歌論とその中心の萬葉集に引かれたのだと思ふ。文明は結論で
左千夫の文学論はそれゆえ、万葉崇拝論のような傾向を帯びて来た、ある意味では子規より後退したと言えぬこともありますまい。

左千夫は、子規崇拝であり万葉崇拝だった。これは性格から出たものだらう。それより文明は、万葉研究で有名だが、万葉崇拝ではなかった。小生も同じで、萬葉集には美しくない歌が多く、それは言霊信仰と和歌記録のためだらうと考へた。文芸ではないからだ。文明は何が理由だと思ったのか。次に
赤彦の萬葉観は、見方によると左千夫よりも、もっと深入りをした(中略)あるいは赤彦には当時の若い仲間ほど西洋や近代がなかったためかもしれません。

文明がこの文章を書いたのは昭和三十六(1961)年。日本が敗戦し、高度経済成長前で、アメリカには経済も生活も著しく劣った時代だった。「アメリカがくしゃみをすると、日本は風邪をひく」と云はれた時代である。西洋や近代化が正しいと信じたことは、時代の影響と読み取るべきだ。だからこの少し前には
左千夫の周囲は、左千夫の西洋無知、左千夫の前近代をのりこえよう、捨てようとして、歌風の方では、製作の方ではそういうふうに進んだのであります。

これは違ふ。左千夫の周りには茂吉、純とドイツに留学した人たちがゐる。また一般の日本人が欧米に行くやうになったのは昭和六十(1985)年以降だ。そのころ「欧米のトイレはどちら向きに座ればいいのか」「風呂が浅いので、排水口をタオルでふさいで足で押さへて入った」と今では笑ひ話みたいな会話があった。その七十年前の左千夫を、西洋無知と云ふことはできない。
赤彦も左千夫と同じく、製作の心掛けと萬葉観を一緒にしている。

次に
茂吉は製作の方から申すと、子規の当初の目標、つまり西洋文学の考えによって、歌も作ろうという考えに、立ち戻った人と見てよいと思います。

小生は、茂吉の万葉観は左千夫や赤彦と変はらないと思ふ。しかし茂吉は、歌と万葉観が乖離してゐた。これは文明も同じだ。だから最初、文明は茂吉に拍車を掛けて左千夫に反抗したのか、と勘違ひしたくらいだった。
詠む歌は茂吉に拍車文明も師への礼儀は門下で一位
(終)

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