二千二十四(和語のうた)1.再度空穂の四段階論、2.最新の歌論(その七の二)一番目二番目三番目は
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
六月八日(木)
窪田空穂全集第十巻古典文学論2を読んだ。真淵か実朝の検索で引っ掛かった。読み終へて、他の巻も読みたくなった。そして第七巻から九巻までを借りた。このうちの第八巻歌論2に、主観四段階論が載る。小生はこれとは意見が異なるので、それを述べたい。その前に、四段階論は前に読んだことがある。誰だったかは記憶にない。調べると、何と空穂で二年半前の特集で取り上げたことがあった。今回は
歌は事柄又は物象を仮りて、作者の主観を現したものである。(中略)同一の作者であつても、若い時には主観が浅く、単純で、老いて来ると深くなり、複雑になつて来る。

以上が導入部で
歌の上の主観の現れ方は、(中略)四つの階段があると云へる。

主観の無い歌が写生、第四段階が芭蕉や人麿だとする。空穂は主観への段階で佳き歌を考へる。しかしそれは空穂の歌感であって、違ふ考へもある。写生を重視するのが子規一門、調べを重視するのが牧水、八一。主観を重視するのが空穂。
重視する内容も各一門各人ごとに、一番目は何、二番目は何、三番目は何、と三つくらいまで分類するとよいのだらう。子規一門は、一番目が写生、二番目が万葉風、三番目は何か。子規一門の中で、小生が左千夫に注目するのは、三番目に雄大さが入るためかも知れない。茂吉は、三番目に時系列による日記風か。特に欧州留学中の歌は、当時の日本人が興味を持ったことだらう。

六月九日(金)
第七巻歌論1は、旧派について
短歌とは斯ういふ物だと、(中略)見本に似た物を作らうとする。(中略)自分の情緒といふ物は入つて行くが、しかし此れは第二位に置いてある(以下略)

旧派は、これが一番目と二番目だった。さて第七巻で頁は飛ぶが
真淵は万葉集の研究者で、(中略)上手とは言へません。門下の人は(中略)誰も上手ではなかつたのです。

四十五年後の景樹についても
歌は情味のない(以下略)

空穂は、歌感が特殊なやうだ。更に頁が飛んで
万葉調には助辞即ちてにをはの少いといふことも挙げなければなりません。

字余りを防ぐために助詞を省くことはよくある。万葉集の特徴として助詞が少ないことは、今後注意して見るやうにしたい。
ふた年も前に空穂の歌を読み 多くの中で優れるは四つのみにて 今も変はらず

反歌  歌作り人それぞれに道がある空穂の道を人は歩めず

六月十日(土)
昨日で今回の特集は終了したのだが、復活させて小生の一番目二番目三番目は何かを考へた。一番目は正確な音数だらう。小生は自由詩が合はない。破調の歌も合はない。
二番目は調べ、又はそれを弱くして低俗ではないこと。三番目は歌の内容が読む人の興味を引くか、それを弱くして散文の中で役だつか。
歌に取り音の数こそ一つ目で 調べ正しき二つ目で 役(つと)め果たすが三つ目に これで読む人悪く思はず

反歌  音の合ふふみそれにより調べよく読まれるならばつとめを果たす(終)

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