千九百十(和語のうた) 1.万葉集講座第四巻、2.その他の書籍から
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
西暦元日後一月二日(月)(2023.1.2)
有精堂「万葉集講座第四巻」を取り上げるのは、今回で二回目だ。前回は森本治吉さんの「記紀歌謡から万葉集へ」だけを取り上げたので、注目点の変遷(と云っても一ヶ月だが)には驚く。清水克彦さんの「長歌」では五七五七・・五七七の形式について
すべての長歌がこの形式に従っているというわけではない。すなわち、山上憶良の長歌のように、中間に五七七の終止形式を持つものもあるし、とりわけ成立当初の長歌の中には、歌体の母胎である口誦歌の形態の面影をとどめているものも少なくはないのである。

長歌の典型的形式は、人麻呂の
玉たすき 畝傍の山の ・・・ 見れば悲しも

である。
この歌には、一首の途中にまったく切れ目がないことがわかる。(中略)この一首のただ一つの述部は、結句の「ももしきの 大宮処 見れば悲しも」である。すなわち、この一首は、いわゆる複文によって構成されたものなのである。

長歌の衰退について
人麻呂以後、憶良と虫麻呂とは、中国の文学や我が国の語りの文学といった、長歌以外の文学に学びつつ、(中略)二人の採った方向は、いずれも、事柄を展開的に叙述するという形で、(中略)人麻呂とは正反対の方向であった。(中略)これはけっして正道ではなかったと思われる。それは、論理や伝説といったものが、本質的にはむしろ散文で表現されるべきものであり(以下略)

さう云はれれば同感だ。一方、散文を定型化すれば一段階上がる。それなら散文より長歌がよい。どちらを取るか。回答は、散文を長歌化するのはよいことだが、長歌を作るために論理や伝説を採択するのはよいものができない、ではないだらうか。
長い歌作れば短い歌までも活きて輝き水気を帯びる


西暦元日後一月三日(火)
「万葉集講座第四巻」は、上記の章以外にも紹介するものが幾つかあるだらうと思ったら、上記以外になかった。今回は六冊を借りたが、「日本文学講座9 詩歌Ⅰ古典編」と今回の「万葉集講座第四巻」以外の四冊を読んでも、特に取り上げる内容はなかった。そのやうななかで、これはあちこちの本にあるので書名は省くが吉本隆明「長塚節」に紹介する内容があった。
秋の野に豆曳くあとにひきのこる莠(はぐさ)がなかのこほろぎの声

など十一首を挙げたあと
景物描写の細密さの極限と、細密であればあるほど空白さが浮き上がってくる詠歌の逆説的な構造は、すでに子規の新しい描写主義のうちに兆しつつあった。たとえてみれば米粒のうえにどんな微細な文字や図柄を巧みに描いても所詮は巧みな<芸>以上のものではない。なぜならば対象の選択力に内的な衝迫と必然がなく、ただ珍しいための限定しかないからだ。

これは鋭い指摘である。小生も、子規が写生に拘ることをずっと疑問に思ってゐた。
根岸派の『万葉』のつかみ方は、(中略)『万葉』の自然描写とみえるものがおおく客観描写や自然の景物の写生ではなく、心的な全体暗喩であることをみないものであった。

これも同感だが、自然が心に与へた影響を描写したもので、暗喩はその時代特有の習慣に過ぎない、と小生は見る。つまり暗喩は現代人が真似してはいけない。その点、子規はそこまで気付かなかったから、暗喩を真似することはなかったが。
これをべつの言葉でいえば、万葉人の自然描写や叙景は、歌がそれ以外の方法では心を表現できないからそうしたまでだという面をまったく無視するにひとしかった。

これも同感だが、そこまでして心を表現すべきではない。暗喩が嫌ひだからさう思ふ。
子規はたぶんこのことに気付かずにすんだ。(中略)つぎつぎに旧套の和歌の概念を着実に、うち破ってゆくことを信じきれたからである。また実際に青年たちは(中略)子規のもとに集まっていった。
(終)

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