千九百十九(うた) 吉本隆明
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
西暦元日後一月八日(日)(2023.1.8)
吉本隆明「長塚節」は、子規一門に対して小生が思ってきたことと一致するので、吉本隆明全集を三冊借りた。しかしページめくりに終はった。小生は非定型詩が合はない。改めてさう感じた。
とは云へ非定型詩には、大正以降の近代短歌にはない魅力がある。定型詩に近い非定型詩が、着地点かも知れない。
定型の詩には歌詞など美しいものもあるので 定型と非定型との中間に 佳い詩があると思はれる 作物で云ふ品種改良

(反歌) 近代は短歌のみにて画一化または破調が進み停滞

一月十三日(金)
新たに、吉本隆明全集撰を三冊借りた。うち二冊はページめくりに終はり「6 古典」のうち第一章西行論と第二章源実朝は読まずに第三章「良寛論」に入った。
道元は、同時代の宋の禅家の風潮に手厳しい批判を下しています。老子や荘子と融合してしまった禅の思想は、仏教本来の思想ではない、仏教の本質を保持しているのは、じぶんの師匠である天童山の和尚であり、それから印可を許されたじぶんである、というのです。

日本の曹洞宗を見ると、漢学の影響は多大だ。経典そのものと経典の解釈は、日本の仏道史に従ひ漢学がよい。しかし昔の高僧の問答は、漢学が多すぎる。小生の触れたのは漢学であり、吉本さんの触れたのは老子や荘子だが、漢学と老子や荘子は、同じものに思へてならない。根拠はないのだが。
近藤万丈の「寝覚の友」には、(中略)荘子との関わりが暗示されています。

小生は、「寝覚の友」がよく言へば作り話、悪く言へば嘘だと思ふ。良寛の名が広まりだした頃に出版されたからだ。
詩人としての良寛は和歌と漢詩と、これにくらべれば数は少ないが長歌をつくりました。このうち長歌がいちばんというのがわたしの考え方です。

云はれてみると、一理あると思へてくるが
長歌のなかでは道元禅や荘子近代的な受容の感性から脱出しているようにみえるからです。

これは違ふと思ふ。良寛は越後に戻ったときは、曹洞宗の生き方を脱した後であり、道元禅からも脱した。尤も吉本さんも、その少し前で
道元の思想から逸脱したあとの良寛は、『正法眼蔵』が禁じた、詩人文学者として後半世を送りました。そして良寛の後半世を支配したのは、おなじように道元が排した荘子などの思想に近いものでした。

小生はこの部分で、意見が異なる。良寛は曹洞宗を超えた仏道を目指したのであって、荘子ではないと思ふ。

一月十四日(金)
吉本さんの
『古今集』以後の歌は、しだいに仮構性の度合を深めて題詠の歌に極まってゆくのですが、近世の和歌の底には事実そのままを歌うところに移っていく流れがみられます。

その結果として
三十一文字が上句と下句の対比と断絶のなかで保っていた緊張が、実作によってつき崩されていったことです。いわば詩型としてのっぺらぼうになってゆきました。

これは事実で、そこが近代に詠まれた歌の欠点だ。
月を鑑賞し、花に迷って暮らすという生活は、道元の宗派から離脱してはじめて存在しえた生活です。「開花・落葉を観じ、溪声山色を友とする」(「勧受食文」)という意味では、阿羅漢の境涯に叶っているともいえます。この意味からすれば、(中略)良寛の日常性が、じつは厳密な、戒律に照らして、ひと駒ひと駒意識的に組立てられた生活だったとみることもできるのです。

吉本さんと、初めて100%意見が一致した。

一月十六日(月)
「吉本隆明 全対談集7」は延べ十五人との対談である。吉本さんは、マルクス主義又は元マルクス主義として、鮎川信夫さんとの対談ではマルクス主義への言及もある。
ここで重要なことは、マルクス主義かどうかではなく、資本主義があるから、それへの対応としてマルクスがある。マルクス主義だけを論じると、資本主義は正しいことになってしまふ。地球を滅ぼす資本主義が正しいはずがない。吉本さんは
反動的なのはよくないけれど進歩的なのはいいことだという考え方をもっている。(中略)進歩がいい場合もあるし、反動がいい場合もある。そんなことは個々別々の問題であってね。

これは同感だ。
「進歩」という概念がいいというイデオロギイを作ったのはロシアだと思うんですよ。特にレーニン以後だと思います。(中略)マルクスはそんなことちっとも言わないのですよ。

これは貴重だ。次に江藤淳さんとの対談で、江藤さんが
私どもが敗戦から占領時代を経て今日までに体験して来たことは、日本二千年の歴史の中でかつてなかったことであり(中略)ある持続を確かめたいからです。つまりズバリと何か言えばすぐピーンと通るような(中略)知的空間を再建したい(以下略)

これは同感だ。それに対し吉本さんは
その日本国というものもあと百年経てばなくなっちゃうかもしれません。

この対談は1982年で、民族解放戦線のベトナム戦争が1975年に終はり、このときが共産主義のピークだったので、世界がアメリカ一極になった時期だった。
しかしコンピュータを考へれば分かるが、同じ機械でもそこで動かすOSが異なると、まったく別のものになる。OSとは人間で云へば文化だ。民族解放戦線は正しかった。毛沢東の少数民族優遇も正しかった。単純唯物論とは、文化を考慮しないことだ。そして欧米文明と資本主義とリベラルこそ、単純唯物論だ。
水上勉との対談は「仏教者良寛をめぐって」で、吉本さんは
農村の共同体に対して(中略)どういう暮し方をしたら許されるのかということについては考えていて、野放図な生活や遊び方のようで、ほんとうはそうではなくて暮していたんじゃないかと(以下略)

これは同感。吉本さんはまた
唐木さん、吉野さんはゆうゆうとして閑日月を楽しむみたいな(中略)そういう良寛というものをひとつの前提にして論じたり(以下略)

しかし
そこを抜かしたら良寛を考えたことにならないんじゃないかという気がして(以下略)

これも同感。水上さんは
吉本さんもご指摘されていますが、良寛さんは富者のみに頼らない。貧者にも托鉢を受けてゆく行乞の精神です。

同じく水上さんは
貧乏している者ほど物をくれてやりたくなるんですよ。瞽女(ごぜ)さんという人々のむれが生きれたでしょ。(中略)乞食が来て、子供らを集めて手毬をついているそうだと聞けば(中略)にぎり飯をもってくる男がいたんですよ。

物書きは売れるかどうかを考へる 水上さんの小説で左千夫について偏向があるものがあり 良寛も悪く描いた作品もある

(反歌) 物書きは史実にうとく偏向の文書に由りて書いたのだらう

一月十七日(火)
「吉本隆明全集4 1952-1957」では、吉本さんがずいぶん論争好きで戦闘的な場面もある。下記はそんなことはないが
桑原武夫のような近代主義者の見解は、短歌が現在、大衆詩(民俗詩)としての機能と芸術(詩)としての独立性とを分離して考えるべき過度的な段階にあり(中略)俗論にすぎない。

小生は「桑原武夫のような近代主義者の見解」を読んでゐないのでこれに賛否を云へないが、吉本さんの「大衆詩(民俗詩)としての機能と芸術(詩)としての独立性とを分離」には反対である。歌謡曲の歌詞には、芸術性の高いものもあれば低いものもある。同じやうに歌も、芸術性の高いものと低いものがある。それだけではないのか。

一月十八日(水)
「吉本隆明全集6 1959-1961」では、まづ短歌が現代も保存する表現の原型として
1 客観的表現|空白
2 客観的表現|主体的な感覚をあらわす助詞・助動詞・形容動詞等

とする。ここまで反対ではない。次に現代短歌の場合は
この客観的表現が超感覚的な言語や抽象的な言語による作者の主観の表現

の場合があると云ふ。客観的表現でありながら
主体をも投影している

更にその後
1 客観的表現|主体的表現
2 主体的表現|客観的表現

小生がこの解析に注目したのは、上句と下句について
暗喩の機能をあたえている点にある。

すべての歌は客観だが、背景に主体がある。これが小生の考へで、だから吉本さんの理論とは無関係だし、現代短歌には興味がない。上句と下句が分離することについて、序詞に応用できないか興味があった。

一月二十日(金)
「吉本隆明全集28 1994-1997」では、「佐美雄短歌の魅力」の章で
なにゆゑに室(へや)は四角でならぬかときちがひのやうに室を見まはす
死をねがふ我をあざける友のこゑ聞きたくなりてききに行くあはれ

など八首を並べたあと
かれの短歌がここから完成した美学をつくりあげるために、何かがなければならなかった。(中略)かれの自我と風景を往き来する言葉が、ひとりでに歴史を包みこむ方法を獲得したからだという気がする。

として
蒲公英(たんぽぽ)の花ほほけ散る春日(はるひ)なか日代(ひしろ)の宮はまぼろしをなす
比良山は雪まだありや夕がすみ茜さしつつ雲にまぎれぬ

など九首を紹介する。吉本さんの解説は難解だが、要は自分の心の中だけを描くと不安定になるし、自分の心を含む風景を描けば安定する。
風景が自我の回りにあることに気付けば自我は安定をする
(終)

追記一月二十一日(土)
(一)吉本さんの大衆詩(民俗詩)と芸術に分ける主張について、現代歌についてだと思ひ、それほど賛成ではなかった。しかし万葉以来の相聞歌と雑歌に当てはめ、それを現代人が真似をしてよいかどうかだとすると、一理ある。

(二)吉本さんは水上勉の「蓑笠の人」を良寛批判ではなく良寛賞賛として紹介するので、小生も「蓑笠の人」を読んでみたが、すぐページめくりになった。やはり水上さんは、この書籍では良寛を悪く書くし、伝記なら多くの人の書籍を読んだので今更読みたくはなかった。
考へなくてはいけないことが二つある。比丘に食べ物を供養することは、供養した人の功徳となる。だから良寛は貧乏な人からも托鉢した。二つ目は、作務をしないことは、原始仏道に従ったのではないだらうか。良寛は、作務を専門にする比丘を称賛しながらも、自身については修行を第一とした。

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