千九百七(和語のうた) 日本文学講座9 詩歌Ⅰ古典編
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
十二月三十日(土)
歌論に関する書籍を六冊借りた。まづは「日本文学講座9 詩歌Ⅰ古典編」である。最初に読んだときに取り上げようと頁数と行数を記したものが八つあったが、いざホームページに書く段階で九つ目の後藤祥子「私歌集」(章としては八つ目)まで飛んだ。
伊勢物語においては(中略)歌集から物語が派生したのではなく、まず物語があった(以下略)
なるほどと納得した。その背景として
歌集を残さず物語を残していることは、九世紀末の和歌の位置をこよなく示しているといっていい。和歌は(中略)それ自体自立した価値を持つものではなかったのが九世紀前後の考え方であった。「色好みの家に埋れ木の人知れぬこと」(古今集序)と片付けられた時代である。
そして
唐代伝奇と同じように、自伝を装った浪漫小説であった筈なのに、いつの間にか、しかも業平歿後ちょうど四半世紀に成る古今集の成立以前すでに、伊勢物語は業平自伝として需要されていたのである。
第十三章目の藤平春男「国学と和歌」では
平安時代末期(院政期)以降織豊時代までと徳川時代とでは、和歌が宮廷を中心とした貴族文学として様式的に完成されたその「みやび」の伝統が生き続けている点では共通しながら、徳川時代になると、表現される人間的感情を重視しようとして「みやび(雅)」自体についてその根源を探り、(中略)さらには(中略)「俗」を和歌に導入しようとして、「雅俗」の問題が強く意識され(以下略)
武者小路実陰は江戸時代前期から中期にかけての人だが、門人の書いた聞書きに
和歌の本意は誠意のみ。(中略)意を誠にするは和歌にすぎたるはなし。儒・釈・神道も皆歌道にこもれり
小生が日常主張してゐることと同じだ。烏丸光栄は江戸時代中期の人だが、やはり同じことを書いてゐると云ふ。
我が日頃云ふによく似た考へが業平及び実陰と光栄(みつひで)にあり 業平は歌にあたいが無いために物語にて歌を詠む 実陰及び光栄は歌は誠と説き行ひた
(反歌)
やまと歌物語にて輝くか誠こころで輝くもある
追記西暦元日後閏十一月二日(月)
残り五冊をここへ追加するはずだったが、手違ひで新しいファイルを作った為、今回の特集はこれで終了としたい。大晦日と元日の疲労がでた。(終)
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