千八百七十九(和語のうた) 「全訳古典選集万葉集」を三度読む
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
十一月十七日(木)
昨日から「全訳古典選集万葉集」を読み始めた。これで三度目だ。まづ五十番目の
やすみしし わが大王 高照らす(以下略)

の「わが作る」から九句が序詞で、長い理由は中にもう一つ序詞が入る。これは大きな序詞で、参考にしたい。小生は最近、序詞に関心を持った。序詞は歌を再発展させる鍵になる気がする。
このあと巻二、巻三を読み、巻四の六九一番目
ももしきの大宮人は多かれど こころに乗りて思ほゆる妹

家持の歌だが、なぜこんなつまらない歌が載るかを考へると、一首だけではなく連作を見なくては駄目だと分かる。さて巻四は序詞がほとんど無く、退屈な相聞歌ばかりだ。作った歌は破棄してはいけないと、当時は信じたのではないだらうか。
実は小生は、歌にしたものはすべてホームページに載せる。ごく稀に字数が合はないで作るのをあきらめたものもあるが、これは歌ではない。小生と万葉人は、同じ考へだったのではないだらうか。
音(ね)を並べ一たび歌ができたなら捨ててはいけない魂(たましひ)が宿る

出来の悪い歌は、推敲を重ねれば良くなる。

十一月十八日(金)
昨日読んだ後、一つ気づいたことがある。万葉集の相聞を、そのまま真似することは原理主義であり、重大な問題を起こすことがある。事実、歌人の中で恋愛騒ぎになった人がたくさんゐる。万葉時代の事情を理解しないためだ。
本日は巻五に入り、琴の物語、海女の物語、佐用(さよ)姫の物語は、美しい内容だ。佐用姫の物語では、後の人の追和、最後の人の追和。最最後の人の追和の歌が合計四首あり、作った歌は捨てない思想から、同種の重複を避けるため、かうしたのかなと思ふ。
巻六は、九四六の
御食(みけ)向ふ 淡路の島に 直(ただ)向ふ 敏馬(みぬめ)の浦の 沖辺(おきへ)には 深海松(ふかみる)採り 浦廻(うらみ)には 名告(なのり)藻(そ)刈る 深海松(ふかみる)の 見まく欲しけど 名告藻の 己(おの)が名惜しみ 間使(まづかひ)も 遣(や)らずてわれは 生(い)けるともなし

の長歌で、解説に
実景を述べながら序詞風に、下の深海松ノ・名告藻ノを起こし、これが枕詞として、見ル・名を起こしている。

その複雑性とともに、序詞「風」に注目した。序詞そのものではない理由は実景かと最初思ったが序詞には、枕詞みたいに意味の無い場合と、意味がある場合がある。実景は意味の有る場合だから、序詞「風」の理由にはならない。この歌では、前の「深海松の」までが後の「深海松の」の、前の「名告藻の」が後の「名告藻の」の序詞で、前後が離れてゐるためか。或いはこれらが枕詞のため、どちらも前後が同じ言葉の為に序詞「風」としたとも取れる。
九九一の
石(いは)走(ばし)り激(たぎ)ち流るる泊瀬川 絶ゆることなくまたも来て見む

についても序詞風との解説が有る。三句目までが「絶ゆることなく」を起こしながら、「来て見む」の対象だからと云ふ。これは分かる。
これで「上巻」が終了し、書籍後部の解説に
相聞の歌は、掛合いの歌から出発したもので、一対の唱和の歌として伝えられるのが本来の姿で(以下略)

これで納得できる。
相聞の歌と挽歌とがしばしば出入しているのは、生きている者の魂を呼び迎えようとすることと死者の魂を呼び戻そうとすること、(中略)本質は<魂呼ばい>の歌であって、求婚することをヨバイといい、招魂の呪術をタマヨバイというのは同じことであった。特に私的な相聞や挽歌がなぜ公的な性格を持つ『万葉集』に収められたのか、(中略)おそらく家々の集が奉られた結果であろう。

これも納得できる。上巻を読み終へて感じたことは、
一、古今集は単独の歌にしたから悪くなった。万葉集は流れの中に歌がある
二、古今集は、選歌が堕落の原因か

十一月十九日(土)
巻七に入り一〇九三の三諸の(以下略)や一〇九四の「(前略)うまさけ(以下略)」は一句が四文字だ。これは字足らずではなく、字数が未確定の時代の作ではないだらうか。
一一〇〇の
巻向(まきむく)の痛足(あなし)の川ゆ行く水の 絶ゆること無くまたかへり見む

で「行く水の」までの三句は、「絶ゆる」の
序であるが、結句「またかへり見む」の対象でもある。

序詞風と云はないのは、序詞が主で対象が従のためか。或いは、どちらも同じで説明が違っただけか。
地名に声調はあるが、それ以外に声調はない。そもそも声調は、作ったものがたまたま読む人や聴く人の感覚と合っただけで、声調佳く作らうとしてできるものではない。
一二〇一の
大海の水底(みなそこ)とよみ立つ波の 寄らむと思(も)へる磯の清(さや)けさ

は「立つ波の」のところに注釈で
以上、実景によって寄ルを起こす序。

とある。波が寄らむとする解釈もできて、それだと序詞にならない。解釈はこの歌の前の歌に「わが舟は」とあるので、舟が寄らむなのかと分かる。
巻七は後半に比喩歌が三分の一を占める。文は定型にすると効力を持つ典型だと思った。

十一月二十日(日)
巻八は、四季と種類ごとに分類。それでも連歌は保たれてゐると思ふ。一四二八の長歌
おし照る 難波を過ぎて うちなびく 草香の山を 夕暮に わが越え来れば 山も峡(せ)に 咲ける馬酔木の 悪しからぬ 君を何時(いつ)しか 行きてはや見む

実際の景色を述べて、「馬酔木」を「悪しからぬの」の序にする。一番望ましい序詞だ。
巻九は、浦島の長歌が特長だ。巻十は途中まで読んで、相聞に序が多い。現代人が見習ふのは、雑歌の序詞だ。作り方は相聞に序に学んでも良いが。
序(はしがき)の詞(ことば)を入れた歌作りまづよろづはに学び心へ


十一月二十一日(月)
本日も巻十を読み、七夕は美しい歌が多い。これは七夕の物語が美しいためだ。
二二三九の
秋山のしたひが下に鳴く鳥の 声だに聞かば 何か嘆かむ

解説が無ければ、秋の相聞に入らなければ、序とは分からない。「声だに」は鳥だと思ってしまふ。
冬の雑歌に入り、巻向、奈良山など美しい地名が多い。冬の相聞にも美しい地名がある。
巻十一に入り、ここは全体が相聞で、「物に寄せて思(おもひ)を陳(の)ぶ」の二四一五
をとめらを袖布留山の端垣(みづがき)の 久しき時ゆ思ひけり われは

について「端垣の」までの三句について
久シを起こす序。その中に布留山を起こす序が含まれている。

と解説にある。二重の序である。また二四三五の
近江の海沖つ白波 知らねども 妹がりと言はば七日(なぬか)越え来む

について「白波」までの二句が
知ラズを起こす序。シラ波と同音であることと行く方を知ラナイことと、二重にかかっている。

と解説にある。一つの序が二重に掛かる。
ここで、序は潜在風景の現れではないか、と思ひついた。潜在意識と云ふと言葉が強すぎるので、風景とした。
巻十二に入り、巻十一と十二は正式の万葉集では無かったのではないかと云ふ気がしてきた。三〇二四の
妹が目を見まく堀江のさざれ波 しきて恋ひつつありと告げこそ

について「妹が目」の理由は何だらうと疑問を持った。「妹が顔」では駄目なのか。やはり潜在風景か。

十一月二十二日(火)
巻十三は、最も古いか、同率一位だらう。巻十三の先頭にある解説でも、長歌について
古体といわれる五・三・七止めや、仏足石歌風の五・七・七・七止め、結句の繰り返しなどがみられ、謡われた歌であったことを思わせる。(中略)内容的にも記紀歌謡に通じるものが多いとみられる。

とは云へ
新しい歌であることがはっきりしている作品もある。

三二四〇の
大王(おほきみ)の (中略) 剣大刀(つるぎたち) 鞘(さや)ゆ抜き出でて 伊香山(いかごやま) 如何にかわがせむ 行方知らずて

「鞘(さや)ゆ抜き出でて」までの二句は
伊香山を起こす序。イカゴ山はイカニを同音繰り返しで起こしているが序ではなかろう。

序詞と云ふ呼び方は、万葉集より後の人たちが付けたもので、作者は伊香山と如何にを口調がよいので用ゐたのだらう。とは云へ、伊香山の件は歌の流れでは実在なので序ではないと桜井さんは言ったのだから、これは正しい。
三二五四の
磯城島(しきしま)の大和の国は 言霊(ことたま)の助くる国ぞ 真幸(まさき)くありこそ

日本は言霊信仰の復活が必要だと思った。封建時代に戻すのではない。国民の幸せのためだ。
三二五七の
直(ただ)に来ず 此(こ)ゆ巨勢路(こせぢ)から石橋(いははし)踏み(以下略)

について
コユはコセを起こす二音の序。

とある。枕詞は五音まで、序詞は六音以上、とよく云はれるので、これは珍しい。その一方で三三二〇の
直(ただ)に行かず此(こ)ゆ巨勢路(こせぢ)から石瀬(いはせ)踏み(以下略)

については此(こ)ゆまでの
以上、巨勢を起こす序。

とあり、この解説文だと前の句も含まれる。桜井さんも迷ったか。
此の巻は恋をさらりと詠ふのでよろづはらしいよき調べかな

前に戻り三二六六の
春されば 花咲きををり 秋づけば 丹(に)の穂にもみつ 味酒(うまさけ)を 神名備山(かむなびやま)の 帯にせる 明日香(あすか)の川の 速き瀬に 生(お)ふる玉藻の うちなびき(以下略)

の「生ふる玉藻の」までの
以上十句、ウチナビキを起こす序。

とある。これだけ長いと、文は作るところに意義がある、とする思想があると思ふ。これは言霊信仰であり、文のもととなるのは潜在風景だ。
三二九四の
み雪降る吉野の岳(たけ)にゐる雲の よそに見し子に恋ひ渡るかも

「ゐる雲の」までの三句が比喩による序と解説にある。序は潜在風景か、実景か。
三三〇二の
紀伊国(きのくに)の (中略) 朝なぎに 来寄る深海松(ふかみる) 夕なぎに 来寄る縄苔(なはのり) 深海松の 深めし子らを 縄苔の 引けば絶ゆとや 里人の 行きの集(つどひ)に 泣く子なす 靫(ゆき)取り探り 梓弓 弓腹(ゆはら)振り起し 志乃岐羽(しのぎは)を 二つ手(た)挟み 放ちけむ(以下略)

「泣く子なす」は
探ルの枕詞。以下六句、放ツを起こす序。

とある。続いて
◎この歌の前半も深海松・縄苔によって、対句による複式の序を成している。

とある。巻十三の相聞はさらっとしてよいことを上で書いた。これらの堕落したものが、他の巻の相聞ではないのか、と思へてくる。特に序を使って薄めるところが。
巻十三は貴重な巻だ。古式の形、さらっとした相聞、そして序の手本集として。

十一月二十三日(水)
巻十四に入った。東歌と云ふ連作物として作られたのだらう。都から見れば珍しい言ひ方、野暮な相聞歌。或いは相聞合戦(男女が左右に分かれて相聞歌を詠ひ合ひ、相手を決めた)みたいなものがあったのか。そのやうな中で三三九七の
常陸なる浪逆(なさか)の海の玉藻こそ 引けば絶えすれあどか絶えせむ

から、三四〇二の
日の暮(ぐれ)に碓氷の山を越ゆる日は 背なのが袖もさやに振らしす

まで佳作が続くのは不思議だ。
相聞歌は序が多いものの、参考にならない。そのやうななかで三四一八の
安達太良の嶺(ね)に伏す鹿猪(しし)の ありつつも吾(あれ)は至らむ 寝処(ねど)な去りそね

「鹿猪の」までの
以上二句、アリツツを起こす比喩の序。鹿猪が寝所を変えない修正による。

序が無いと「安達太良」も無くなり、どこの話か分からなくなる。他の相聞も序に地名を入れたものは多いが、この歌は鹿猪の修正を活かしたので、地名も活きる。
巻十五は新羅への旅日記、後半は同じく旅別れ。
今回のこの巻では、個々の歌ではなく、全体の流れを見るやうになった。だから此処の歌についての感想は無い。
東歌旅の別れも初めから終はりの歌まで流れを味はふ


十一月二十四日(木)
巻十六に入り、前半は物語と歌なのでよい内容である。ところが後半は、例へば三八二一の「児部女王の嗤ふ歌一首」は尺度(さかと)氏の娘が身分の高い人の求婚を断って身分の引いぶ男と結婚したことを、児部女王なる非常識女が笑った歌で、紹介は控へたい。
三八二四の「(前略)湯沸かせ(中略)狐に浴(あ)びさむ」は動物虐待なので、これも控へたい。幾つかの言葉を入れた即興歌なので何とか我慢。これ以外も汚い内容の歌が多い。巻頭の解説に
「雑歌」は本来の意味を完全に失って、『古今集』以下の「雑の部」の観を呈しているかに見えるが、「雑歌」の意味がそこまで転落したのではなく、(以下略)

一回目で紹介したが、これらが「俳諧歌」「物名歌」へと発展したとする。
巻十七も読み終へた。万葉集と古今集の中間との印象を受けた。
とをあまりむつの巻では半ばまで好い歌続きそのあと悪し


十一月二十五日(金)
巻十八に入り、四〇八七の
燈火(ともしび)の光に見ゆるさ百合花 後(ゆり)も会はむと(以下略)

「さ百合花」の三句は後(ゆり)を起こす序だ。次に四〇八八の
さ百合花後(ゆり)も会はむと(以下略)

さ百合花はユリの枕詞だ。この場合四〇三七の序詞は、枕詞の大きいものといへる。序詞には、それ自体に意味を持つもの、口調を整へるもの、言葉遊びなど、歌によって目的が異なることが分かる。四一〇六の長歌
(前略)雪消(ゆきげ)溢(はふ)りて 射水(いみづ)川 流る水沫(みなわ)の 寄る辺無み 左夫流(さぶる)その子に(以下略)

「寄る辺無み」まで五句がサブル(遊行女婦)を起こす序で「寄る辺無くさびしいではないが、サブルに」となる。この歌では、修飾のためだけに序がある。
巻十九では、四二二七の長歌が、577575777(方歌+仏足石歌)だ。解説は
いかにも口誦歌らしい。

巻二十では、巻頭の解説に
防人歌では(中略)拙劣な歌は採録しなかったという。

と云ふことは、一般にはすべての歌を採録した。だからここではわざわざ明記したのだらう。
防人の歌は、民謡から創作的境地に一歩踏み込んだところにあり(以下略)

これは、庶民のすべての歌に言へる。
だんだん詞書が長くなり、右注が少なくなる。これは堕落を表はすのではないだらうか。
「全訳古典選集万葉集」下巻の解説に
<枕詞>は<序詞>と共に、文字を持たない社会に発生したものであるに違いない。万葉の時代には、すでに本来の意味が忘れられたものが多く、柿本人麻呂によって新しい生命がふき込まれたりしたが、歌を文字に落とすことが多くなって、単なる修辞になり(以下略)

前半は賛成だが、後半はどうか。単なる修辞ではなく現代に蘇る方法を、今後探って行きたい。
今の世に序(つい)での詞活かす技枕とともに歌が輝く
(終)

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