千八百五十(うた) 「全訳古典選集万葉集」を読む
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
十月十三日(木)
これまで万葉集から選歌したものは読んだが、万葉集そのものを読んだことはない。そこで今回、旺文社の「全訳古典選集万葉集」(桜井満 訳注)を読むことにした。(上)(中)(下)の三冊のうち、(中)の最初迄行ったところで、途中の感想を書くと、
(上)朝廷賛美、恋愛、普通の出来事やそれへの心の動き、の三種。このうち三種目の歌こそ、私は万葉集の中心だと考へるが、ほとんどは美しさを含まない。つまり、定型にすること自体が美しい。
(中)素朴な歌と、普通の出来事やそれへの心の動き、の二種。どちらも万葉集の中心だが、後者が万葉集に載った理由は何なのかを考へると、(上)の三首目と同じで定型にすること自体が美しいのか。
因みに良寛の歌が美しい理由に、万葉集を模したから、が加はった。今までは、書として、良寛の質素な生活を背景として、だった。
十月十五日(土)
この二日間で、(中)の三分の一(本文)或いは四分の一(解説を含む)までしか進まなかった。
大楠公青葉茂れる桜井の桜井さん訳内容が濃い
昨日感じたことは、
巻第七の比喩歌は、枕詞、序詞がわずかしかない。
挽歌は死を悲しむ歌なので当然ではあるが、心からの叫びが多い。
巻第八に入り、まづ概説に
「挽歌」が抜けて四季に分類され(中略)、それは、ほぼ百年を隔てて成立した『古今和歌集』に最も近いものである。古今は、(中略)「雑歌」の概念も変って来ている。要するに、歌が文学化を進めると、実用的な「挽歌」は置き去りにされて行くのであろう。それは葬送儀礼が形式化し、簡略化して来たこととも無関係ではないはずだ。宮廷の儀礼や行事にわが国在来の雅楽に合わせて謡われた雑歌も、しだいにその概念に変化が生じて来ているのであった。
雑歌は定型が美しいと私は主張したが、なるほど儀礼や行事で雅楽に合はせて謡はれたとすれば、その裏付けとして参考になる。と同時に、万葉以降の時代は、どこで美しさを出すかが問題になる。
本日感じたことは
122ページ目の「山上臣憶良、秋の野の花を詠む歌二首」として、一首目は短歌、二首目は旋頭歌。二つを区別することなく「歌二首」とすることに注目した。歌自体は、一首目が指を折って数へれば七種、二首目はそれらの花の名を並べたもので、これが雑歌だ、今の感覚だと雑歌で通用すると云ふものだ。
その次の歌の
秋の田の穂田を雁(かり)がね 闇(くら)けくに 夜(よ)のほどろにも鳴き渡るかも
聖武天皇。前半も実景、後半も事実。時間差を序詞で繋げたところが美しい。
その十首あとの、典鋳正(いもののかみ)(金銀銅鉄の鋳造や玉作りなどをつかさどる典鋳司の長官)が衛門大尉(ゑもんのだいじょう)(衛門府の三等官)の跡見庄(とみのたどころ)(荘園)で作った歌は、醜い典型だ。役職をごてごて並べた上に、荘園とは驚く。歌自体も、狩で追ひ出した獲物を射る人が隠れるところだの、獣の足跡を見つける役だの、動物殺生の醜い単語が出て来る。
巻第八まで読み終へて、序詞には前半が主で後半は落ち(話を終はらせる部分)と云ふ歌もあるのでは、と感じた。
十月二十日(木)
本日は巻第十一まで読み終へた。ここ一週間ほど、序詞に興味を持った。五日前の大楠公青葉茂れる桜井の(以下略)は序詞を用ゐた第一号となった。二句と三句は大楠公から本歌取りである。
此の辺りの巻は序詞が多い。そして相聞だから、序詞が無いと退屈なものになる。
序ことばと枕ことばは万葉の人々による生活の知恵
十月二十五日(火)
(下)に入り、巻第十四の東歌は多くの人が一番好む巻である。ここに掛詞がある程度ある。古今和歌集以後多くなる掛詞の源流は東歌か、とさへ思ってしまふ。巻第十三にも掛詞がわずかにあるが。東歌の後半の雑歌についての解説に
大和朝廷に伝来した雑楽・雑舞に合わせて謡われた歌の義。東歌の雑歌は、特に東舞・東遊などに合わせて謡われた歌だったのかも知れない。
とある。美しさを感じない歌は、そもそも文学を目的として詠まれた歌ではないので、それでよいのだらう。次に巻第十五に入り、解説の
前半は、新羅に派遣された使人関係の歌群百四十五首であり(以下略)
とある。読むと美しい物語りでもある。
後半の短歌群は(中略)流刑に処せられ(中略)夫婦の(中略)互いに嘆いて贈答した歌であるという。
本日は前半まで読み終へて、美しい歌が多く、私の歌感と合ふ歌ばかりだ。巻十四と並び、万葉集で最も好きな歌群になる予感がする。
さて、序詞の前半は当時の有名な歌謡の一部ではなかったのでは、と云ふ気がしてきた。歌謡は消えたが万葉集が残った。
十月二十六日(水)
巻第十六の前半は、物語に歌を付けたもので、私がホームページで散文に歌を埋め込むのも、発想は同じだ。尤も成立過程は異なり
説話が題詞または左注に伝えられ(中略)漢文に仕立てられ(中略)漢文に仕立てられているのである。
さて、雑歌は
日本古来の雑楽・雑舞に合わせて謡われる歌の義であることを思うと、(中略)説話の部分は、雑楽・雑舞の筋書のようなものであったかとも思われる。
巻第十六の後半は、私の歌感とは異なる。解説では
「雑歌」は本来の意味を完全に失って、『古今集』以下の「雑の部」の観を呈しているかに見えるが、「雑歌」の意味がそこまで転落したのではなく、(以下略)
万葉は多様を集めた書(ふみ)にして秀作集とは別の目的
十月二十七日(木)
巻第十七で感じたことは、序詞は二つのことを詠んだのではないか。つまり前半と後半は、両方とも事実(または空想)。これまでは、後半だけが事実(または空想)で、前半はそれを盛り上げるための脇役としてきた。
二日前に、序詞の前半は当時の有名な歌謡の一部ではなかったのでは、とする考へも出した。序詞にもいろいろな場合がある。
序詞は前と後ろが意味を持つ或いは前が歌謡の一部
巻第十八の
朝びらき入江漕ぐなる楫(かぢ)の音の つばらつばらに我家(わぎへ)し思ほゆ
「楫の音の」までが「つばらつばら」の序詞だ。先ほど感じた、前半と後半が、両方とも事実(または空想)の典型だ。或いは後半が脇役とも云へる。
十月二十八日(金)
巻第二十の前半は防人の歌で、別れを惜しむ歌が多く、美しい。歌は生活に根差さないと駄目だと、つくづく思ふ。本文を読み終へて、解説に入り歌は
はじめから「文学」として存在したのではない。(中略)長上・朋友・恋人等々に対して、さらには制令死者に対しても、自らの魂を歌いかけ、(中略)そうした歌が持つ機能から、歌には(中略)呪的な要素や主題が潜在する(中略)に違いない。
これは同感だ。
<枕詞>は、<序詞>と共に、文字を持たない社会に発生したものであるに違いない。万葉の時代には、すでに本来の意味が忘れられたものが多く、(中略)歌を文字に落とすことが多くなって、単なる修辞になり、本義が忘れられて化石化してしまうのであった。
次に或る東歌の第五句「玉と拾はむ」について
人の身体が触れたものにはその人の魂が宿ると考え(中略)タマと呼んだのであった。
次に
別れに臨んで袖を振るということが、旅の無事を祈る呪法になっていたようだ。
これは貴重な情報だ。
袖を振る恋愛物に非ずして旅での無事を呪法で祈る(終)
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