千八百五十五(和語のうた)最新の歌論(その二)
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
十月二十一日(金)
全訳古典選集万葉集を中巻まで読み終へた。全訳古典選集万葉集」を読むにも書いたが、序詞に興味を持ち始めた。序詞には二つあり、意味によるものと、音によるものだ。
意味によるものは難しい。作る人も読む人も難しい。だから音によるものを、まづ作りたい。言葉を重複させないものは序詞だらうか。掛詞とする人と、掛詞型の序詞とする人がゐる。
私が最初に作った大楠公青葉茂れる(以下略)は、最初大楠公青葉茂れる桜井の満さん訳内容が濃いだった。これだと掛詞なので「桜井の桜井さん訳」と重複させて序詞にした。
掛詞のほうが近代的だ。重複はあかぬけしない。しかし万葉集を読み序詞に興味を持ったのだから、万葉集型にした。ここで、万葉集がよくて古今集以後は駄目だ、とは思はない。万葉集に佳い歌と駄目な歌があり、古今集や新古今集も同じだ。左千夫の歌に佳い歌と駄目な歌があり、牧水の歌も同じだ。
これは子規の根岸派が悪いのだが、どう云ふ歌が佳くてどう云ふものは悪いと歌論を振りかざすから、歌の範囲が狭くなる。ここで近代の歌で序詞を用ゐたものを紹介すると
夕ぐれの三日月のうみ雲しづみ胸しづまりぬ妹に逢ひし夜は

左千夫。「雲しづみ」までが序詞で、後半も「胸しづまりぬ」と音が重なる。さて
馬追虫(うまおひ)の髭のそよろに来る秋はまなこを閉じて想ひみるべし

節。「そよろ」は掛詞だらうか。私は違ふと思ふ。そよろに秋が来るのではなく、髭のそよろで一旦切れる。そして、来る秋を詠った。更に分かりやすく説明すると、「そよろに」が「来る秋」を修飾すれば掛詞だが、「馬追虫(うまおひ)の髭のそよろに」が「来る秋」を修飾すると掛詞ではない。

十月二十二日(土)
歌を作るこつは、まづ普通の文章が上手くなることだ。これは最近気づいた歌論である。普通の文が苦手な人は、歌なら短いから大丈夫だらうと作っても、型にはまったものや、その反動で突拍子もないもの(私は短詩と呼ぶ)になってしまふ。
普通の文が上手くなるこつは、書く(今はキーボードを打つ、もあり)ことだ。書けば改良もあるし、慣れもある。書いたあとは、推敲するとよい。しかししつこく繰返すと嫌になるから、一回やったら同じ文は一日以上空けるとよい。次のときは、新しい気付きがある。
例へば最新の歌論(その一)に「母音があるときは字余りがあるやうになった」とあったが、これを本日「母音があるときは字余りを認めるやうになった」に変へた。「あるやうになった」だと、必ずあると誤解を与へるが、それより今回気付いたのは「が」の助詞が「は」を挟んで一つ置きに連続する。だから「を」に変更した。これなんかは一回推敲をすれば気付くことだ。まだ一回もしなかったことが分かってしまふ。
文(ふみ)を書く佳き歌を詠むその人と世の中の明日今日より明るく


十月二十三日(日)
昨日の後半の話題に従ひ字余りを認めるやうになって一ヶ月。表現力が格段と向上した。しかし母音のみの音が無い句で字余りをしてはいけない。牧水は朗詠を好んだ。左千夫がゆっくり読むと言った。これらを実行すると判る。尤も左千夫の歌には破調もあるが。
母(も)のみ音(おと)含むふみにて音(おと)余り認め広がる幅と奥行き

一句目は「母(も)のみ音(ね)を」のほうがいい。しかし三句目に「音(おと)余り」があるので、一句目も音(おと)に統一した。(終)

「良寛、八一、みどり。その他和歌論」(百十)へ 「良寛、八一、みどり。その他和歌論」(百十二)へ

メニューへ戻る うた(三百九十四)へ うた(三百九十六)へ